夜の闇の中、DIOは艶やかなその上体を惜しげもなく月明かりにさらしている。少し毛先が濡れているのは、シャワーを浴びたからだろう。の周りで唯一、の過去を知るものだ。はしゃんと背筋を伸ばし、あのですね、と恐る恐る話し出す。

「ひとつ、思い出したことがあります。わたしはイギリスの生まれということです。それで、もしかしたらわたしは……」

 そこから先を口にするのは、憚られた。言葉にすることによって、本当になる気がして。DIOに聞くことによってそれが真実となるのが怖かった。自分が人殺しなんて、考えただけで身体が震える。バルコニーの手すりに置いていた手が小刻みに震えていて、それを抑えるように、は利き手に片手を添えた。

「わたしは……人を殺したのですか」

 震える声で口にすれば、の胸が八つ裂きになりそうなくらい痛んだ。言ってしまった。ついに真実を知る時が来たのだ。違うと言ってほしい、君は人殺しではないと。まるで審判の時を待つような気持ちになった。

「ふっ……本当には面白い」

 面白い? 意図を理解しかねるが、DIOを仰ぎ見る。

「そう、はイギリスの出身だ。しかし君は人を殺していないし、何の罪も犯していない。私がを庇って遠い国に来たと?」

 何の罪も犯していない、その言葉に全身の力が天国へと行ってしまったかのように抜けていく。黙って何度も同意するように頷いた。

「それは違う。私がこの場所を選んだのだ。この街は活気がある」
「ではDIO様もイギリス出身なのですか」

 この問いにDIOは微笑むだけで答えてくれなかった。彼については謎ばかりだ。そして自分のことも。けれどやっと、小さいけれど一歩を踏み出せた気がした。やっと見つけたピース。あといくつあるのか検討もつかないが、ひとまずはこのピースを大事に抱えて、枝葉を伸ばすように色々と取り戻していきたい。



ドーナツ・ホール



 朝の気配が漂う前に、はDIOの寝室にやってきた。朝が来るということは、この館が眠りに就くときだ。リボンをもらったあの日からDIOの部屋で寝ることになっていて、今日も寝る準備を整えてやってきた。それにしてもいつになっても二人で同じ部屋、同じベッドで寝るというのは慣れない。心を決めてノックをするが、中から何の反応もなかった。もう一度ノックしても何の反応もなかったため、恐る恐る扉を開ければ、家主は不在のようだった。そこで、DIOが外出してから今日はまだ戻っていないことを思い出す。どうしたものか、自室で寝てもいいのだろうか、と部屋に入らずに悩む。

「……失礼します」

 忠犬よろしく、言いつけを守らないという選択肢はなかった。誰もいない部屋に挨拶をし、薄暗い部屋の奥にある大きすぎるベッドに腰掛ける。暫く待つが、やはりDIOは戻らなかったため、横になって目をつぶる。大きな部屋の大きなベッドで一人、いつもいる人が隣にいないーーーしかも家主ーーーと言うのは、とても居心地が悪い。やってきた眠気に身を任せて浅い眠りを繰り返す。結局彼は朝になっても戻らなかった。目が覚めたときに横にDIOがいないことに寂しさを覚えて、そんな自分に戸惑う。

「DIO様のことを考えてばかりです」

 呟きは薄暗い部屋に吸い込まれていった。DIOに惹かれていくのを止められない。けれど本当にこのまま空白を抱えたままDIOに惹かれてしまっていいのだろうか。自分の感情に戸惑いながらも、シーツに手を這わせてDIOの存在を感じ取ろうとしたが、冷たいだけのシーツからは何も見つからなかった。ごろりと寝転がり大きく空気を吸い込めば、DIOの匂いを感じて、心臓が深く脈を打つ。目を閉じればすぐそばにDIOがいるような気がして、ますます心臓が高鳴った。



「ドーナツは空洞があるからドーナツですよ」

 テレンスの言葉に、はテレンスが用意してくれたドーナツをしげしげと見つめると、片目をつぶり、ドーナツの穴からテレンスを見る。柔和な笑みを浮かべてテレンスはを見つめていた。が今手にとっているドーナツが今日の朝ごはんだった。ーー朝ごはんと言っても、時間的にはもう日が傾き始めているが。

「その空白も含めてさんなのです」

 別にが相談を持ちかけたわけではないが、テレンスにはお見通しなのだろう。テレンスは人の心を読む能力に長けている気がしている。ドーナツは空洞があるからドーナツなのであり、空洞がなければそれはドーナツではない。

「そうでしょうか……」

 ドーナツのままで、いいのだろうか。

「そうですよ。それに聡明なDIO様のことです、時が来たら教えてくれますよ」

 確かに、とは頷いた。今はまだ教えるべきではないと判断したからDIOは言わないのだろう。記憶を取り戻すのを諦めたわけではないが、持っているピースだけで今は十分だ。なくしたピースを探すのも大事だが、新しいピースで埋めるのだって大切なことだ。今はDIOについてもっと知りたい、そんな風に思う。
 ドーナツを一口食べると、もう穴の形は分からなくなってしまった。

「ところで、DIO様はどこへいってらっしゃるのでしょうか」
「私も存じ上げませんが、暫くは戻らないと仰っていましたよ」

 ずん、と胸が重くなった。暫くDIOに会えないということでこんな風になるなんて、身の程知らずだ。こんな気持ちを抱いていることを、DIOに知られたくない。けれど知ってほしいような気もするのだ。とても不思議で身勝手な感情だった。
 DIOがいないとなると、の一日はこの館の掃除をする以外特にやることはない。暇だと色々と考えてしまうので、気を紛らわすためにこの館に備えてある図書室で本を読むことにした。の身長を優に超える書棚が壁一面に備えてあり、そこには様々なジャンルの本が蔵書されていて、気になった本を手にとってはパラパラとめくり、興味を惹かれたらテーブルの上に積んでいく。中でもエジプトのピラミットやミイラなど、考古学に関する本に自分が興味を示したことが、自分でも意外であった。椅子に座り込んで夢中で読んでいると、扉をノックする音が聞こえてくる。DIOが帰ってきたのだろうか、と淡い期待を抱く。は読んでいるところに指を挟み込んで本を閉じ、返事をすれば、扉が控えめに開けられた。

「失礼します」

 来訪者はテレンスだった。本当に失礼ながら、わずかに残念な気持ちになる。しばらくDIOは帰ってこないと分かっていたので、すぐに気を取り直す。

「DIO様だと思いましたか?」

 落胆が顔に出ていたらしく、テレンスが肩をすくめる。は一瞬悩み、曖昧に笑んだ。テレンスはのもとへと歩み寄り、恭しく一礼した。

「申し訳ございません。食事の準備が整いましたので呼びに来ました」
「わざわざすみません。今行きます」

 テレンスの視線がテーブルへと流れて、が積んだ本を捉える。すると、ほお。と感心したように息をつく。

様は考古学にご興味があるのですね」
「そうですね。自分でも意外でしたが、なんだか面白くて」
「でしたらカイロには考古学博物館がありますよ。お時間があったらぜひ行かれてみたらいかがでしょう」

 カイロの考古学博物館と言うと、先程まで本で見ていたピラミットやミイラなどを見ることができるのだろうか。想像しただけで楽しそうで、胸がそわそわとした。記憶を無くす前も考古学に興味があったのだろうか。もしかしたらなにか記憶が取り戻せるかもしれない。

「楽しそうです! 近々行ってみます」
様は本当に感情がわかりやすいですね」

 同じようなことをDIOにも言われたことがあるが、そんなにわかりやすいのだろうか。考えていることがすべて見透かされているようでなんだか恥ずかしい。すると自分はどんな顔でDIOを見ているのだろうか。DIOの目には、どんな感情を湛えているように見えているのだろうか。なんて、またDIOのことを考えている自分に気づいて、苦笑いを浮かべた。
 それから数日間、DIOは帰ってこなかった。それでもDIOの部屋で必ず寝て、起きてはため息をつく。その日の夜も大きすぎるベッドで眠りにつくと、視線の先に薄暗い明かりに照らされたDIOの姿を捉える。ベッドの上で身体を横にして片肘をつき、のことを見ている。ぼんやりと鈍い回転の頭で、DIOのことを考えるあまり、ついに夢にまで出てきてしまったのかと情けない思いになる。



 凪いだ水面のような底抜けに穏やかな声。この声で名前を呼ばれるのが、とても好きだと思った。夢の中DIOの大きな手のひらが頭に添えられて、ゆっくりと撫でられる。夢でもいい、久々にDIOに会えたのだから。なんなら夢のほうが都合がいい。が暗闇の中漂うように手を伸ばし、DIOの身体に手を回すと自然と擦り寄る。

「DIO様ぁ……」

 その体温に、匂いに、深い安らぎを覚えて、また意識が深い海の底へと沈んでいった。

+++

 寝惚けているとはいえ、自ら進んで抱きついてくるとは、DIOは狐につままれたような気持ちになる。DIOの記憶する限り、からやってくるのはこれが初めてだ。彼女の頭の中での最上位はいつでもジョナサンで、それはどんな事があっても揺るがない。そもそもDIOをそういう相手として考えられたこともなかったわけだ。だからこそが自ら擦り寄ってくるなどというのはあり得なかったわけなのだが、可愛いところもあるではないか、とDIOは口の端を吊り上げる。腰に添えられた細い腕は暖かく、眠りについた人間の体温だ。この温もりがひどく懐かしく感じ、一時の安らぎがDIOを包み込む。
 餌の女と比べればなんと貧相な身体か。けれどDIOは遥か昔からこの身体が、心が欲しかった。どこにでもいるような女だ。ただ単にジョナサンのことを好きな直向きな女で、DIOを赦したいといった女。尤も、ジョナサンを殺してその身体を乗取ったと知ったら、一瞬で考えが変わるかもしれないが。
 寝室に入った瞬間、彼女の匂いが鼻孔をくすぐり、“帰ってきた”という気持ちになった。少しの間、館を留守にしていたが寂しく思ったのだろうか? と、の頭を撫で付けながらDIOは考える。彼女はとても満足げに目を閉じている。てっきり自室で寝ているかと思ったが、言いつけを守ってDIOの部屋で寝ていた。彼女らしいといえば彼女らしい。

「でも……テレンスさんは」

 が寝言をつぶやく。テレンスが夢に出てきているのか、それでこんなに幸せそうな顔をしているのかと思うと面白くはない。どうしてくれようか、と考えを巡らせる。

「DIO様は……ドーナツでもいいんですか……」

 一体どんな夢を見ているのかとてつなく気になる寝言だが、DIOも出演しているらしい。抜けるように笑みが溢れる。を包み込むように抱きしめると、DIOも目を瞑った。

+++

 翌朝、何かに閉じ込められているかのような身体の不自由さでは目を覚ます。目の前には壁のような光景が間近に広がっている。どういう状況なのだろうか、と寝る前の記憶を辿ろうとして、一つ思い当たった。

「DIO様……!?」

 壁かと思っていたものはDIOの胸板で、身体の不自由さはDIOに抱きしめられているからだと理解する。昨夜夢でDIOが現れたのだが、それは夢ではなく現実だったのだろうか。の声で目を覚ましたDIOが少し身じろぐ。

「おはよう

 腕から開放されたので、は上体を起こす。夢ではない、本物のDIOがそこにはいた。