ある日、無人のクルーザーが波間を漂っているのが発見された。あるのは飲みかけの三人分のコーヒーカップだけで、争った跡も、船の故障もなく、なぜいなくなったのか誰もわかる者はいなかった。 ただ一つ、変わっていたのは、アセチレンバーナーで焼き開けられた鉄の箱がドンと甲板にあったことだ。中はからっぽだったが、シェルターのような二重底の構造になっているのを皆不思議がり、宝の発見を想像したが、数か月すると、やがて忘れられた。 百年 長い、永い夢を見ていたような心地だった。けれども目覚めると、何度も何度も擦り切れるくらい見た気がするその夢たちは、すべて忘却の彼方へ去ってしまった。 頭が重い、身体も重い、目をうっすらと開けると、視界はぼやけて何も見えない。目を擦ろうにも腕が動かない。生きているのか死んでいるのか、自分は生きていると思っているが、実は死んでいるのかもしれない。それくらい自分の身体は不自由であった。頭はずっとぼんやりとしていて、何も考えられなかった。 「……目覚めたのかい?」 妖しく、なんと心地よい声なのだろうか。ぼんやりしている頭は何も考えられず、ただその声に耳を傾けていた。深い深い眠りの海で、この声を幾度となく聞いていた気がする。まるで子守歌のように穏やかで、底抜けに安心するこの声の主はいったい誰なのだろう。 「、おはよう」 おはようございます、と言おうとするのだが、まるで声の出し方を忘れてしまったみたいに、何も空気を震わすことはなかった。 「ああ……、目覚めてくれて嬉しい」 誰かが抱きしめてくれる。嗅覚が抱きしめてくれている人の香りを感じ取り、急激に懐かしい思いが雪崩れ込んできた。押し寄せてくる記憶の波は断片的に様々な光景を見せるが、すべてモヤがかっていて、何も思い出せなかった。 「焦らないで、ゆっくりでいいんだ。ずっと眠っていたのだから仕方ない。まずはリハビリだ」 身体を離して、落ち着かせるようにゆっくりとしたトーンで言った。相変わらず視界はぼやけたままでなんだかつかれるので、目を閉じた。 「この状態では脳に損傷があるかどうかもわからないが……ゆっくり確認していけばよい。もう百年待ったのだ。どれだけ時間がかかろうと、何も苦ではない。私と一緒に色々なことを思い出していこう」 優しく頭を撫でられる。依然として廻らない頭ではあるが、それでもこの人の大きな掌に深い安心を覚えた。 そして時間が経つにつれて段々と意識がはっきりしてきた。しかし身体は自由が利かないのと、頭がぼんやりとするのが続いて何も反応はできない。彼の語り掛けることは耳を通り過ぎ、頭にとどまることなくそのまま消えていった。 それでもずっと男の人は話しかけてくれた。何度も呼びかけてくれることから自分の名前がであるということがわかった。それから視界も徐々にクリアになってきて、そばにいる人は黄金色の美しい髪に、彫刻のような美しい身体をしていることがわかった。この人は、一体誰なのだろう。 +++ おおよそ百年、深海の中でその時を待っていた。ジョナサンの身体がなければその時を迎えることはできなかっただろう。彼の肉体も非常に弱っていたが、それでも“自分の首”だけではここまでこれなかっただろう。 そして、偶然と偶然が幸運にも重なり、今こうして地上に降り立つことが出来ている。サルベージ船に引き上げられなかったらあのままシェルターの中で死に絶えていただろうし、シェルターを開けられるのが日暮れ時でなければ、百年ぶりの外の空気を吸うや否や粉塵と化していただろう。 そうはいっても身体は弱り切っていた。冷凍状態で保存している彼女の生死を確認する程の余裕はなかった。まずは自分の身体を万全にすることが先決であると思い、彼女はそのままで、力を取り戻していくことを優先した。 吸血鬼の生命力と言うものは、やはり人間なんぞとは比にならない。百年何のエネルギーも取り入れることなかったこの身体であったが、時間はかかったがどんどんと力を取り戻していった。 『ディオ様』 彼女の安らかな寝顔は、“あの時”のままで止まっている。眠っているようでもあったし、一枚の絵画のようにそこで描かれているようでもあった。そしてそれは嬉しくもあり、不安でもあった。 早く彼女を百年前から止まったままの氷の絵画の世界から連れ出して、笑いかけてほしい。けれども連れ出したところで、もうすでに死んでいるかもしれないし、何かしらの障害を抱えているかもしれない。寧ろその可能性のほうが高いと踏んでいる。 後者であれば彼女を吸血鬼にして再び命を吹き込むしかない。それはそれで仕方ないことだが、吸血鬼と言うのは力を得られるが、太陽を一生浴びることはできない。自分はそれで良い。しかし、彼女にとって力は必要のないものだが、太陽は必要なものだ。なぜなら彼女は向日葵だ。太陽に焦がれる向日葵。向日葵から太陽を奪えば、向日葵は生きてはいけない。現実彼女は植物ではないので生きていけるが、けれどももうそれは、自分の求めている彼女ではなくなっているかもしれない。 彼女が彼女であることは違いないのだが、やはり彼女には人間でいてほしい。彼女が人間を辞めるときは、自分と共に“天国”へ行くときだ。 そして徐々に力を取り戻していき、生命力が、熱気が漲っているここ、エジプトのカイロに拠点を構え、不思議な老婆から“新たな力”を手に入れた。いよいよ彼女を百年の眠りから覚ます準備が整った。 |