橙色の緩やかな日差しが窓から差し込む放課後。待ちに待った部活の時間だ。クラスメイトは部活に行ったり帰路についたり、それぞれの道をゆく。も友達と挨拶を交わしたのち、理科室への道を歩いていく。このあと佐為と顔を合わせるのが、なんとなく気恥ずかしくて、そわそわして鼓動がいつもよりも早い。 理科室の扉を開けると、筒井とヒカルが碁盤を用意しているところだった。 ヒカルの後ろに控えている佐為と視線が合う、きゅっと縮こまる心臓。佐為は人差し指を唇に寄せると、その切れ長の目を優雅に細めて、口角を上げた。これは「内緒」の合図。は唇をキュッと結んで、小さくうなずいた。するとヒカルがの動きに気づき、その視線を追いかける。視線の先には佐為がいて、佐為は何事もなかったように手をおろしている。に向き直ったヒカルは訝しげな顔をする。 「なんだよ、急に頷いて」 「あ、え、な、んでもない! ふふ」 は笑顔を浮かべて、それ以上の追及を避けるべく、準備の手伝いに合流する。佐為との授業中の出来事は、二人だけの秘密だ。とても些細なことだが、どうしようもなく大切なことのように思えた。 「筒井さん、手伝います」 「ありがとうさん」 筒井と一緒に準備をしていると、理科室にはに置いてかれてしまった三谷が不機嫌そうにやってきた。三谷はと筒井の姿を認めると、ふいと視線を逸らしそのまま理科室を出て行ってしまった。筒井の方も、先ほどと様子が違う。怒っているような、気まずいような、そんな顔だ。 いつもの三谷なら、ここでに「なんでおいてくんだよ」と文句の一つでも言ってくるところだろう。しかし、何も言わないなんて、明らかにいつもと様子が違う。 三谷と筒井、きちんと二人の関係を意識して見たことがないからか、今更ながら何となく二人の関係性が良くないような気がしてきた。改めて思い返すと、二人が喋っているところを見たことがない。がやってきてまだ二週間ほどだが、こんな少ない部員で、喋っているところ見たことがないなんて思い返せば不自然だ。を点と点が繋がった気がした。 準備も終わったところであかりがやってきて、はヒカルと窓際の席に座り込む。誰も周りにいないことを確認して、は声を顰めてヒカルを呼ぶ。 「ねえ……もしかして、祐輝と筒井さんって、あんまり仲良くない?」 の問いに、ヒカルと佐為は目を合わせた。やがて、少し言いづらそうにヒカルが打ち明ける。 「実は……うーん。三谷って、碁会所で、ズルやってお金儲けしてたこと知ってるか?」 はヒカルの言葉に、面食らう。三谷、碁会所、ズル、お金儲け、その単語の威力にしばし圧倒されて、目を瞬く。 『ヒカル、あまり言わない方がいいのでは……?』 「でも、いずれわかることだろ」 佐為が心配そうに言うも、ヒカルは戸惑いを残しながらも言い返す。 三谷は確かに昔から頭の回転も早い。バレなければズルの一つや二つ、当然やるさ。くらいのことは言っていたのを記憶している。そのたびに窘めたり、怒ったりはしてきたが、まさか碁会所でもやっていたとは。しかもお金儲けなんて。 「……知らなかった。それで?」 それはそれとして、は続きを促す。ヒカルは話の続きを紡ぐ。 「順を追って話すと、今度囲碁の大会があるんだけど、三人必要なんだ。で、部員俺と筒井さんしかいなくて、どうしても一人必要でさ」 詰碁集の問題を描いた部員募集ポスターを作り、貼ったところ、正解の回答を書いたのが三谷だった。ヒカルが部活を勧誘するも、三谷は部活に入らないと拒む。そんな矢先、三谷は碁会所で賭け碁をしていたところ、ついに痛い目に合う。一万円を賭けていたのだが、それを奪われてしまった。それを見ていたヒカルが、奪われた一万円を取り返したら部活に入れといい、三谷は了承した。結果、佐為が相手を見事負かして、一万円は取り返し、三谷は入部することになったのだった。 だが、ヒカルが三谷のズルのことを筒井やあかりに言ったところ、筒井はズルに対して激しく非難した。ズルをする三谷を許せず、入部した今もなんとなく二人は距離があるのだった。 「なるほど……確かに、筒井さん、ズルとか許さなそう。なんとなく事情はわかったよ。教えてくれてありがとう」 は少し思案する。おそらく、三谷だって部活でズルをする気はないはずだ。そう思いたい。それが筒井に伝われば、少しは関係性が良くなるだろうか。筒井は超がつくほど真面目だし、気持ちはわかる気がする。大会に出て、ズルで欠格になったらたまったものではない。からすれば三谷のことは昔から知っているし、そういう大事なところでズルはしないことをわかっている。けれど三谷の人となりを知らないひとからすれば、それを危惧するのは当然だろうと思う。 「……二人が仲悪いままだと空気悪いもんね、わたしもちょっと考えてみるよ。とりあえず、ズルは絶対にやめさせる」 「サンキュ。三谷もの言う事なら聞きそうだよな」 「どうかなぁ」 逆に、意地を張って聞かない可能性もある。 全く、なぜ幼馴染の人間関係を心配しなければならないのか。三谷は優しいが、それを出さない。意地を張ったり、意地悪をしたり、そんなこんなで誤解をされやすいのが三谷という人だ。 「もう、祐輝って昔からそうなんだよね。何回わたしが祐輝の思っていることを通訳したことか」 「三谷と仲いいんだな、ほんと」 「まあずっと一緒だからね。ヒカルとあかりみたいな関係だと思うよ。それより、大会がもう近いんだね。わたしと打つんじゃなくて、筒井さんや祐輝と打ったほうがいいんじゃない?」 『ではは私と打ちましょう!』 「わあ、いいね!」 「勝手に話進めんな!」 例のごとくトントンと進んでいく幽霊同盟の話には思わず笑みがこぼれてしまう。 と、そのとき、「おーっす」という聞いたことのない声が理科室に響き渡る。とヒカルはどちらとなく声のした方を見やると、ヒカルはその姿を認めて「加賀!」と名前を呼ぶ。 「よぉ進藤。お前本当に囲碁部入ったんだな」 加賀と呼ばれた男は、威風堂々という言葉が似合うような立ち姿で理科室に入ってきていた。囲碁部員が一番堂々としているのが普通なのに、この場の支配者は一瞬でこの男になった、ようにには見えた。学ランの前ボタンは全部空いていて、手に持った扇子には「王将」の文字が書いてある。つまり、将棋関係の人ということだろうか。それに、ヒカルが加賀を呼び捨てにしたということは、同い年なのだろうか。 「将棋のほうがおもしれぇっていってんのによ」 「なんだよ加賀、引き抜きに来たのか」 あかりと打っていた筒井が楽しそうに言った。筒井と加賀は一見、クラスにいても友達にならなそうなタイプだが、筒井はとても親しみを込めた喋り方をしている。つまり、結構仲がいいということだ。 「そんなことしなくても将棋部は十分人がいるからな」 やはり加賀は将棋部らしい。加賀はやがてぐるりと理科室を見渡すと、あかりとの姿を見て驚いたような顔になる。 「女子部員もいるじゃねえか、すげえな」 は頭を下げる。するとヒカルが「オレが誘ったんだぜ」と得意げにいう。 「藤崎あかりです」 「です」 「筒井と同じ三年の将棋部の加賀鉄男だ」 三年生! ヒカルが呼び捨てな上タメ口を聞いていたので、勝手に同い年だと思いはじめていたから、加賀の方から学年を言ってくれてよかった。そうだ、ヒカルは誰にも物怖じをせず、基本的に敬語を使わない人だった。 『加賀は将棋部なんですが、棋力はヒカルよりも断然強いんですよ』 佐為が近くに寄ってくれて、こそっと教えてくれた。将棋部なのに囲碁が強い、加賀。将棋のルールも知らないが、どっちも強いってことはとてもすごいことだと思う。 それにしたって、こんなときだって佐為の美しさには見惚れてしまいそうになる。近くでこそこそ話をしてくれた佐為は、今この瞬間も底抜けに美しい。また心臓がドキドキと早く動き出した。 『前にヒカルが中学生のフリをして大会に参加したことがあるんですが、そのときに大将を務めていたんですよ』 そんなことがあったんだ、と心のなかでつぶやく。落ち着け心臓、落ち着け心臓。 「今日は将棋部休みだから暇なもんで様子見に来たんだ」 「ヒカル、加賀さんに打ってもらったら? 大会も近いし、わたしは祐輝のことちょっと探してくるよ」 「あーそっか……わかった。ねえ加賀、オレと打ってよ」 「へっ、かかってこいよ進藤」 加賀はとヒカルのもとにやってきた。近づくとなお圧というオーラというか、そのような目に見えない力を感じて、ザ・先輩という感じがする。背が高いのもあるだろう。 「今度わたしとも打ってほしいです」 はおずおずといえば、加賀は扇子で仰ぎながらニカッと笑った。 「暇だったらな、顔だしてやるよ」 ちょっと怖いけど、面倒見が良さそうな先輩だ。は口角が自然あがるのを感じた。 二人が碁を打ち始め、それをあかりと筒井が囲いながら見ている。は消えていった三谷を探しにそろりそろりと理科室を出た。 |