最近は日も伸びてきたが、家につく頃には日が暮れ、薄暗く夜へと移り変わり始めていた。突然の日曜日の三谷とのお出かけだったが、あっという間にお別れの時間だ。玄関の前までやってきて、は三谷から牛乳を受け取った。

「今日はありがとう、祐輝」
「別に。つーかオレが誘ったんだし」

 家族以外で、今日最後に会うのは三谷であろうし、明日の朝一番に会うのも、きっと三谷だ。だからきっと寂しがることなんてないのだろうけれど、それでも別れは後ろ髪引かれてしまう。もっと一緒にいたいけれど、それは胸の内にしまう。

「じゃ、おやすみ」

 三谷はそう言うと、ぽん、との頭に手を置いた。ほんの一瞬の出来事で、は突然のことに目をパチクリとするが、そのまま三谷は去っていく。残されたは呆然と立ち尽くす。
 ふたりとも頬が林檎のように赤く染まっているが、夜の暗がりが隠して、どちらも気づくことはなかった。


+++


 学校が始まる、月曜日の朝。眠い目を擦って支度を整えて家を出ると、ちょうど三谷が現れた。毎朝彼の明るい髪を見ているせいで、彼の橙色の髪を見ると、朝の訪れを感じる。

「おはよ、祐輝」
「よっす」

 いつも通り、並んで葉瀬中へと歩き出す。

「昨日は楽しかった、ありがと」
「そりゃよかった。……姉貴も会えて嬉しかったってさ」
「ほんと!? 祐輝のお姉さん、どんどん美人さんになっていくねぇ」
「そうかぁ?」
「うん! それに、やっぱり祐輝ってお姉ちゃんに似てるよね」
「はぁ? どこがだよ」

 心底嫌そうに言うから、は声を出して笑った。

「そういえば詰碁集ね、嬉しすぎて枕元に置いて寝たの」
「なんだそりゃ、なんか囲碁の夢見そうだな」

 三谷が顔をくしゃっとして笑った。三谷が笑うとまでつられて笑顔になる。彼の笑顔が大好きだ。
 その日の授業が終わると三谷とはどちらともなく合流し、理科室へと向かう。これはもう当たり前のことになってきている。囲碁部の女子ズは囲碁がわからないので、三谷や筒井、そしてヒカルに教えてもらうのだが、はヒカルに教えてもらうことが多い。それは佐為のことがあるからで、周囲に怪しまれずに佐為も交えて話したいという目論見があるのだが、それがかえって周りから別の方面から怪しまれるようになっている。
 あかりと三谷が碁盤を囲い、丸椅子に座り込む。今日も二人で少し離れた場所で打っているとヒカルをどちらともなく見やる。

「なんか、ヒカルとって中学入ってから仲良くなったとは思えないくらい仲良しね」
「……そうか?」

 三谷があぐらをかきながら眉根を寄せる。口ではそう言いつつも、三谷もあかりと同じことを思っている。普通に考えれば幼馴染の三谷がに対して教えたりするのが自然流れだし、そうなると思っていた。けれど現実は、囲碁部に入部を決めたのもヒカルの影響だったし、囲碁を教えているのもヒカルだ。ヒカルより自分のほうが棋力は上なのに、ああ、面白くない。と、三谷は心のなかでぼやく。自分を差し置いて急速に仲良くなっていく二人を見ていると、ちくりと胸が痛んだ。
 一方、とヒカルは窓際の日が射す暖かい場所で碁盤を囲う。ヒカルとの間、ちょうど碁盤の横に佐為が座り込む。

「土曜日はありがと、とっても楽しかった」

 が礼を述べると、佐為がぱあっと笑顔になって立ち上がる。

『私の方こそありがとうございます! とーっても楽しかったです』
「だぁー、なんでオレより先に言うんだっつーの」

 佐為がを見つめながらニッコリと言い、そんな佐為を呆れたように見やるヒカル。
 この二人といると、不思議な安心感に包まれる。ずっと昔から知っているような、一緒にいるべき人のような、そう感じるのだ。三谷に対してこの気持ti
を抱くのならば、それは普通だろうけど、ほんの少し前に会ったこの二人に対してそう思うのは、なぜなのだろう、と不思議に思う。

『次は土曜日ですよね』

 佐為はすっと座り込むと、上目遣いにを見つめる。

「そうだね、でも二人は大丈夫? 本当に行っていいの?」
「も―――」
『勿論です! 丁寧に教えますね』

 例によってヒカルが答える前に佐為が食い気味に返事をする。

「ありがとう、佐為」
「……ハァ。もうツッコむのも疲れたぜ」

 ヒカルが苦笑いをした。佐為がに対してどんな感情を抱いているのかは、ヒカルの及び知るところではない。ヒカル以外の人間から認識を受けていることが嬉しいのかもしれない、かつて想っていた女性に似ていることもあるかもしれない。とにかくヒカルの目の前でだけをまっすぐに見つめる佐為は、好意的な感情を抱いているように見える。なんなら尻尾がぶんぶん振れているようにも見える。犬か。本当に見ていて飽きない幽霊だ。

「なあ、佐為って犬みたいじゃねえ?」
「あはは、確かに。可愛い犬みたい」
『ひどいですヒカルゥ! それにまで』

 ヒカルとは笑い合う。

「ねえ聞こえた? いつの間にかからって呼び方まで変わってるよ」

 あかりは声を潜めて三谷に言う。話の内容までは聞こえないが、確かにヒカルは“”といっていた。三谷はぶすっと顔を歪める。

「ほら、気ィ抜いていると、こうなるぞ」

 三谷があかりの石を囲い、取り上げた。わぁぁ! とあかりの悲痛な叫び声が響き渡った。
 あかりの悲鳴を受けて、とヒカルはぱっとあかりたちを見るが、すぐに事情を察知して意識は目の前の碁盤に戻る。

「……佐為と一緒にいたら、毎日楽しいだろうなあ、飽きなさそう」
『私も! 私もです! 私もと一緒にいて、碁を打ったら、毎日楽しいと思います!』

 きちんと碁のことが入っているのが、なんとも佐為らしい。

「なんだよお前、オレと一緒じゃ不満なのかよ。でもほんとコイツ面白いんだよ、今度さ、空港とか行ってみねぇ? コイツ絶対腰抜かすぜ」

 ―――巨大な飛行機が飛び立つために轟音を立てて目の前の滑走路を駆け抜けて、やがて大空へと飛び立っていく。
 の想像の中でも、佐為は悲鳴を上げながら腰を抜かしていた。

『くうこうってなんですか?』
「内緒だ、な?」
「ね」

 ヒカルがいたずらっぽく笑むので、もつられて微笑む。

『ええ、気になります! ほんと、現代は驚くことがいっぱいですが、私、結構色んなもの見てきましたからね! そう簡単には驚きませんよ』

 もう佐為のその言葉もフリにしか聞こえない。自信満々に言い放つ佐為に、ヒカルは「はいはい」と笑い、パチと碁石を打つ。

「佐為、この場合はどう打てばいいの?」

 の問いに、佐為は手に持っている扇子で打つべき場所を指し示す。

『そうですね、ここに打ち、広げたほうがいいですね』
「なるほどねえ」

 佐為に言われた通りの場所に打ちこむと、ヒカルが難しい顔をする。

「おい佐為、手加減しろよな」
『ヒカルの成長にも繋がりますからね』

 三人で過ごす時間が好きだ。三人だけ時の流れから切り取られて、何の干渉も受けない世界で生きていければいいのに、なんては二人を眺めながら空想する。と、そこで、佐為は既に時の流れから切り取られていることに気づく。が天寿を全うして、身体から魂が抜けた時、佐為は傍にいてくれるのだろうか。―――いつまで、一緒にいれるのだろうか。
 そんなことを考えていたら、少し怖くなった。佐為という、不確かで、決して証明することができない存在が消えてしまうことに。

『どうしました?』
「ううん、なんでもないよ」

 起こるかどうかも分からないことを不安に思って今この時を楽しめないのはもったいないことだ。分かってはいるのについ考え込んでしまうのは、自分の悪い癖だ。
 ぶんぶんと頭を振って笑って見せた。