「それでは失礼する」
「あ、もう行かれてしまうのですか」

 何の名残もなくすっと立ち上がったものだから、は思わず声色に寂しさが滲む。欲を言えばもっとお話がしたかったが、先ほど話すのは好きではないと言っていたので、そんな我儘は言えない。

「用は済んだ。何かあれば鴉を飛ばせ」

 冨岡が自宅の住所を教えてくれた。慌てて近くに置いてあった紙を持ってきて、書き連ねた。

「冨岡さま、ありがとうございました。近々日程をお伺いに鴉を飛ばします」
「……任務がなければいつでも良い。では」

 冨岡に続いて客間を出ると、蜜璃と伊黒が並んで立っていた。

「もう帰っちゃうんですか!? お夕飯食べて行けばいいのに」
「責任は果たした」

 そういって、冨岡は帰っていた。
 その後は先ほどの客間で蜜璃と伊黒から事情聴取が始まった。

はあの男の何がいいのだ」

 テーブルをはさんでの斜め前に座っている伊黒が訝しげに尋ねる。

「ま、まだお慕いしているわけではありませんよ。ただ、もっと知りたいって思うだけです」
「でも知りたいってことは、少しはお慕いしているってことよね?」

 自分のことのように胸を弾ませながら蜜璃が言う。

「うーん……自分でもよく分からないのです。まだ冨岡さまのことを全然知りませんから……。でも、助けていただいた日よりも、もっと気持ちが大きくなったのは……たしかです」

 視線を落としてもう冷めてしまった紅茶を見つめながら冨岡のことを想う。綺麗なお顔で、寡黙な方だった。彼のことを想うと、心臓がきゅうっと締め付けられる。

「趣味が悪い。もっといい男はそこら中にいる。今からでもまだ間に合う、考え直せ
「でも冨岡さんだったらちゃんのこと守ってくれそうだし、添い遂げる殿方としては合格ね! ちゃんのお相手は、私よりも強くなくっちゃダメなのよ!」
「……甘露寺も、冨岡のようなものがいいのか?」
「えっ!? 冨岡さんは確かに可愛いけど、でも……私は……そのっ!」

 最終的に蜜璃と伊黒の仲睦ましく、それでいて見ている側がもどかしいようなドキドキする会話が始まったので、がそれをニコニコと眺めることとなった。
 その日はずっと地から浮いたような、ふわふわとした心地で過ごしていた。隙あらば冨岡の顔が浮かび、蜜璃と顔を合わせればニヤニヤと締まりのない笑みを零し合い、布団の中では何度も何度も彼と交わした言葉を思い出しては、胸がときめかせた。

(夢のような、幻のような、そんな出来事だったな……)

 夢でもう一度会えるようにと、枕元に冨岡からもらった手拭いを置いている。

(まだ冨岡さまのことを全然知らないのに、頭の中が冨岡さまのことでいっぱい……。きっと、恋に恋している状態なのよね)

 かろうじで残っている冷静な自分が、もっと落ち着くのだと言い聞かせる。もっと知りたい、もっと会いたい、そんな気持ちがこれ以上溢れないようにとなんとか理性を保とうとするが、そう思えば思うほど冨岡が頭から離れなくなった。


(なぜ、俺のことを知りたいんだ)

 初めて言われた言葉に、冨岡は戸惑っていた。誰かが自分に興味を持つなんて思ったこともなかった。興味を持つに値しないことは自分がよく分かっている。自分のことを知ったところで何かいいことがあるとは思えない。

(変な女だ)

 自分のことを知って何になる?
 変な女こと、の鎹鴉が手紙を持ってきたのは、甘露寺邸を訪問してから1週間後のことだった。
 お礼をしたい件について、任務がなければ、三日後はいかがかという内容だった。確かその日、任務はなかったはずだ。突発的な任務が入らなければ問題ない、と返そう思ったが、生憎紙が見当たらなかった。の鎹鴉は手紙を渡したら満足げに帰ってしまったし、冨岡の鎹鴉を飛ばすのは年老いていて少し心配だ。少し考えた結果、冨岡は手紙を置いて立ち上がった。


「はーい。え、あ、冨岡さま!? ひっ!!」

 甘露寺邸から顔を出したは、来訪者の顔を見るなり小さく悲鳴を上げて戸をぴしゃりと閉めた。冨岡は悲鳴を上げられたという事実に、少し傷つく。間もなく再び扉は開いて、がおずおずと現れた。今日は隊服を着ていた。

「すみません失礼しました。冨岡さま、先ほど鴉を飛ばしたのですが、いかがいたしましたか……?」
「鴉から手紙を受け取った。その返事をしに来た」
「え!? わざわざきていただいたんですか? お手紙を鴉に持たせていただければよかったのにすみません」
「生憎、紙を持っていなかった」
「なるほど。せっかく来ていただいたのですから、どうぞあがってください」
「結構だ」

 婚前の女性の住まいに男が一人あがるものではない―――柱合会議の際に伊黒から言われた言葉を思い浮かべる。あがるのは駄目だが、立ち寄るのはよいのだろう。そういう了見で、冨岡はやってきたのだった。

「三日後、突然の任務が入らなければ問題ない」
「わかりました」
「今貰ってもよいが」
「う……勝手なお願いではありますが、改めてお渡しにあがりたく存じます」
「わかった。では失礼する」
「あ、ちょっと待ってください!」

 はぱたぱたと屋敷の奥に行ったと思ったら、竹の皮の包みを冨岡に渡した。

「これ、おにぎりです。わざわざ来ていただいたので、よかったら」
「……自分が食べるためではないのか」
「またつくるので大丈夫ですよ。今夜の任務の時に食べようと思っていたので、またつくります。蜜璃さまがたくさん召し上がるので、食糧は沢山あるんです」

 今宵は冨岡も任務だ。少し迷って、冨岡はありがたく頂戴することにした。頭を下げて礼を述べた。

「無事に帰ってこい。俺も任務だが、もしまた危ない時があったら可能な限り駆け付ける。今度は怪我などさせない」

 どうしても、あの日怪我をしたの姿が脳裏にちらつく。もう少し早く駆け付けられたら、彼女は怪我をしないで済んだのに。そんな気持ちが芽生えたのは間違いなくほかの柱たちによるものだが、困ったことに一度芽生えたこの気持ちは、枯れることなく冨岡の中で咲き続けている。

「あ、ありがとうございます。来てほしいような、ほしくないような……いや、お手を煩わせないように頑張ります!」

 今日は蜜璃との任務だから、滅多なことがない限りは大丈夫だとは思いつつも、は冨岡の心遣いに胸をときめかせた。冨岡が自分の心配をしてくれているのなんて、こんな幸せなことあるのだろうか。

「冨岡さまもご無事で」

 の言葉にはぺこりとお辞儀をして応え、冨岡は帰っていった。その後姿を、見えなくなるまで見守り続けた。
 帰りの道すがら、冨岡は手紙用の紙と筆を買った。自分が手紙を送ることはないとは思いつつも、念のため買ったのだった。


(200901)
冨岡さんって、そう簡単に人を好きにならないと思っています。
なのでこのお話でも、そう簡単には結ばれない予定です。じわじわと。