朝がきた。藤の家紋の屋敷を後にし、甘露寺邸に戻ると、門の外でそわそわとしている蜜璃の姿が見えた。の姿に気づくと、物凄い勢いで駆け寄ってきた。

ちゃん!!!! 鴉から聞いたのよ! 至る所を骨折したって!!!」

 やっぱり自分の鴉に伝言は難しかったようだ。ものすごく話を盛られている。蜜璃はへたりと力なく座り込み、わ〜〜〜っと大粒の涙をぽろぽろと流した。蜜璃を泣かせてしまった。

「わ〜〜〜〜蜜璃さまごめんなさい!! 鴉の伝達ミスです!!」

 も座り込み、蜜璃に渡すハンカチを探しているうちにまで涙がぽろぽろ流れてきた。

「右腕を骨折しただけなんですう〜〜! わ〜〜〜ん!!」
「とにかく絶対安静なんだからぁ〜〜!! わ〜〜〜〜ん!!」

 二人の女の絶叫にも似た泣き声が響き渡ったとか。
 それからあっという間に蜜璃に自室へ運び込まれて、あれよあれよという間に布団を敷かれ、寝かされて、改めて絶対安静を言い渡された。
 そのころにはもう、助けてもらった男のことは頭の隅にいってしまい、蜜璃に心当たりがないか聞こうと思っていたことなんてすっかり忘れてしまった。とにかく今は、申し訳ない気持ちと、自分の不甲斐なさに打ちひしがれていた。

「すみません蜜璃さま……一人でも倒せると見込んで送り込んでもらったのに……頸を斬れず、怪我までして、自分が不甲斐ないです。折角蜜璃さまの継子にしてもらえたのに……。もっともっと修行します。もっともっと稽古をつけてください」
「そんなことだってあるわ。生きて帰ってこれたことが一番大事なの。とにかく今は、絶対安静! でも心配だわ……しのぶちゃんに診てもらおうかしら……」
「ただの骨折ですから大丈夫ですよ! 胡蝶さまのお手を煩わせるほどでは!!」
「でもでも〜〜」

 押し問答の末、蝶屋敷へいくことは免れた。ただでさえ打ちひしがれているのに、蝶屋敷で蟲柱のお手を煩わせるなんて、申し訳なさ過ぎて精神がやられてしまう。一日でも早く骨折を治さなければ。全集中の呼吸を駆使し、細胞を活性化させて治りを早めねば。
 それから蜜璃は時間を見つけてはたびたび見に来てくれて、甲斐甲斐しく介抱してくれた。幸せの至りでもあるが、同時に胸も痛んだ。恋柱である蜜璃の貴重な時間をこんなことに割いてもらうのは、あってはならないことだ。

「蜜璃さま……明日からはちょっとずつ屋敷のことをやらせてもらいますね」
「だめだめ! 当面はゆっくりしてないと! 家のことなら心配しないで? お手伝いさんを雇うことにしたの!」
「しかし、身体がなまってしまいそうで……。片腕は使えますので、どうか……」
「う〜〜〜〜ん。あっ、そうだわ! ちょっと待っててね〜〜」

 蜜璃は何かを思いついたように部屋を出て、しばらくしたらお盆に何かを載せて戻ってきた。

「じゃじゃ〜ん! ぷりんだよ〜。頂き物なのだけどね、卵の味がするとっても美味しいものだったの。はい、あ〜ん」
「美味しそうです! あ〜〜」

 蜜璃はぷりんなるものをスプーンですくって、の口に運んでくれた。蜜璃の言う通り、卵の味がして、それでいて甘い。蜜璃と一緒に住むようになってから、西洋の菓子をたくさん食べさせてもらっている。どれもこれも美味しくて、幸せな気持ちでいっぱいになった。

「ど〜? 美味しいでしょう」
「はい〜。甘くてとろけちゃいそうです」

 しかもそれが、蜜璃からのあ〜ん。だなんて、幸せ過ぎて怖い。生きててよかったと改めて感じた。伊黒さん、すみません。と姿かたちもわからない蛇柱に対して心の中で謝罪した。

「ぷりんを食べたら鎮痛剤を飲んで、もうひと眠りしましょうね」
「承知しました」

 はい、あ〜ん。と再びぷりんが運ばれてきて、親鳥から餌をもらう小鳥のように、ぷりんを食べさせてもらった。さらに、鎮痛剤を飲むために水まで飲ませてくれて、はそれはもう、胸が躍る高揚感に包まれながら横になった。そして横になった瞬間、はっと気づく。蜜璃に明日からのことをはぐらかされてしまった。さすが弟がいるだけあって、下の子の扱いに長けているということか。明日またお願いしよう、と思いつつ、言われた通りひと眠りすることにした。



++++



 次の日、蜜璃は急遽任務が入ったため、お屋敷をあけるとのことだった。

ちゃん、戸締りはきちんとするのよ? 何かあったらすぐ鴉を飛ばすのよ? ああ、心配だわぁ……」
「ご心配に及びません。御武運をお祈りしています。必ず、生きて帰ってくださいね」

 右腕に気を付けながら蜜璃と抱擁を交わして、蜜璃は後ろ髪引かれながらも任務へ向かった。
 蜜璃が出立して少ししたらお手伝いさんがやってきて、ご飯を作ってくれた。さすがに食べさせてもらう訳にはいかないので、なんとかひとりで食べた。
 蜜璃がいないのをいいことに、日中は出来る範囲で修行を行った。勿論できることは少ないが、やらないよりはましだ。
 修行の途中に、隊服のポケットの中に手拭いが入っていることに気づいた。これは、助けてくれた男が巻いてくれた手拭いだ。思い出したら急激に男のことが気になってしまった。日輪刀を鞘に仕舞い、縁側に腰かけた。

『よく頑張った』

 あの時のことが蘇り、胸が締め付けられる。甘い甘いぷりんを食べているときよりも、甘い心地だ。けれども、男のことを思い出して、甘い心地になるのがなんだか罪な気がして、ぶんぶんと男を意識の外に追い払おうとした。例えるなら、修行中に隠れてぱんけえきを盗み食いしているような、そんな気持ち。勿論名誉のために断っておくと、盗み食いはしたことない。しかし追い払おうとすればするほど、男がの中で大きくなっていく。先刻、手拭いを発見するまで意識の底にあったのに、どんどんと存在が肥大化してくる。

「煩悩め!! しっしっ!!」

 すっと縁側から立ち上がり、男を追い払うがごとく、左手で日輪刀の素振りをし始めた。