好きとか、恋とか、どうでもいい。興味もない。というのがエレンの率直な感想だった。そんなことより何よりも早く調査兵団に入って巨人を一匹残らず駆逐したい。それがエレンのすべてだった。そう、ついさっきまでは。

「こ、こんにちは。はじめまして」

 エレンの視線の先で、小柄な女性が自信なさげに自己紹介をしている。

(か……)

 エレンの中に初めての感情が生まれた。

(……可愛い人、だな)

 巨人のことだけを考えていたエレンの頭の中に、ほんの少しだけ、女性への興味が芽生えた。彼女の名前は。後にエレン・イェーガーの初恋相手となる女だ。けれどエレンがそれを自覚するのはまだ少し先の話。

+++

「君に任せたい」

 団長用の重厚なテーブルに肘をついたエルヴィン団長が視線をわたしに向ける。大きくて鋭い瞳にじっと見つめられ、わたしは息が詰まる思いがした。団長直々の依頼を断れるわけもなく。けれどすぐに返事をできずにいた。だって断れるのならば断りたいから。ーーー『もっと適任の方がいます』『わたしにそんな大役が務まりますでしょうか』ーーー色々と言葉が浮かんでくるが、まるで声の出し方を忘れてしまったかのように、わたしは口を開いて立ち尽くした。

「君にとってもこの経験は役に立つと思う。引き受けてくれるだろうか」

 あぁ、最初から決まっていた。そうだった、わたしに渡された選択肢は、はい。しかないのだ。追い打ちをかけるようなエルヴィン団長の言葉に、わたしはついに観念した。

「承知しました」
「ありがとう。ハンジには私から言っておく」

 わたしは団長室を出ると、浅く息をつく。そしてとぼとぼと団長室を後にした。

+++

 午後は第四分隊でミーティングだ。会議室ではすでにハンジさん以外が座って待機していた。だいたいみんな座る位置は決まっていて、そのとおりにみんな座っていたので、わたしもいつもの席に座った。モブリットさんとニファの間だ。

「ねえ、今度兵団の売店に期間限定で、ウォール・シーナで有名なお菓子屋さんがくるって聞いた?」

 ニファの情報はとても早くて正確だ。座って早々に教えてくれた情報に、わたしは思わず、えっ! と声を出す。頬が上気するのを感じた。

「知らなかった、すっごい楽しみ!! 貯金全額使わないように気をつけないと……」
「お前ら甘いものほんと好きだよなぁ」

 ケイジさんが顎をさすりながら笑った。

「過酷な日々の、ちょっとした安らぎなんです?」

 ニファが可愛い顔をゆるりと緩めて言う。お菓子を想像しているのだろう。そんなやりとりを第四分隊で繰り広げていると、ばたばたと忙しない足音が聞こえてきた。この足音はきっと、ハンジさんだろう。

「ごめーんみんなお待たせ!」

 書類を小脇に抱えて、ハンジさんがご登場した。ハンジさんは流れるように残った真ん中の席に座り込み、書類をテーブルに置いた。第四分隊の顔を見渡して、わたしのことを捉えた瞬間、思い出したようにハンジさんが、あ。と声を出す。嫌な予感がする。

、聞いたよ」

 早速ハンジさんに突っ込まれる。主語はないが、絶対にあのことだ。顔が強ばるのを感じる。

「私も聞きに行こうかなぁ、先生の講座!」

 あーやっぱり、絶対言うと思った!! わたしは眉尻を上げ、体の前で腕を交差させて、バツを作る。拒否のサイン。

「絶対に来ないでください!!」
「なんだ、先生になるのか?」

 モブリットさんが不思議そうにわたしを見る。もう喋るしかない流れになってしまった。まあ、どうせいつかはバレて話すことになるのだから、仕方ない。わたしは腹をくくる。

「実はーーー」

 わたしはエルヴィン団長から頼まれたことの仔細を説明した。
 ーーー今期卒団するウォール・ローゼ南方面駐屯の訓練兵団に、卒団前に兵団員としての心得や、それぞれの兵団の特徴等を説明し、その他先輩として後輩たちの不安事や悩み事を解消するように務める大役を仰せつかったのだ。
 この役目は各兵団が分担して行っている。何箇所もある訓練兵団のもとに、各兵団から丁度いい年代の兵団員が赴く。年が離れすぎていても親しみが沸かないし、かといって若すぎても新兵の質問に答えられなかったり、不安を解消できない可能性がある。そのため、ある程度経験を積んだ丁度いい年代の兵団員が派遣されるらしい。それが、今年はわたしと言うことだ。
 わたしが卒団するときも確かに先輩がお話をしていたと思う。しかし、何兵団の誰だったか、全く覚えてない。きっと新兵にとってはその程度なのだから、そこまで気負う必要もないのかもしれない。が、やはり大勢の新兵の前で喋るなんて、気が引ける。

「大抜擢だな」

 モブリットさんがからかうように笑いかけてくる。わたしは顔を顰める。

「どう考えてもはずれくじです」
「いや、そうとも限らないよ。いつかが幹部になったとき、会議とかで人前で話すことは多くなるからね。そういう経験を積んでおくのは、いいことだと思う」

 ハンジさんの言葉にわたしは、なるほどな、と思いつつも、それはいつのことになるのやら、と気が遠くもなった。そもそも幹部になるまで生き残ることができるのだろうか……。

「頑張れ!」
「ニファ……他人事だと思って……」

 拳を握って鼓舞するニファの顔は明らかに楽しんでいる。じとっとニファを睨みつければ、ニファは面白そうに笑った。

「そういえば、今期入団する訓練兵団は何期になるんだ?」
「104期です、確か」

 ケイジさんの問いにわたしに答えて、皆感慨深げに息をつく。

「もう104期なのか……歳月を感じるな」

 グンタさんが遠い目をする。

「急にオジサンくさいですね」

 わたしはクスクスと笑うと、グンタさんは「うるさいな」と唇を尖らせた。

「はい、じゃあ会議始めるよ」

 ハンジさんの言葉で、一気に仕事モードに切り替わった。

+++

 エレンが次にその女性と会ったのは、その昔調査兵団の本部だったという古城だ。エレンの身柄は現在リヴァイ班の監視のもとにあり、街から離れたこの古城に身を寄せている。
 日も暮れた古城の地下で薄闇の中、リヴァイ班の面々で紅茶を飲んでいると、二人の人物がやってきた。壁に備わっている燭台の仄かな明かりでは最初はわからなかったのだが、近くで見てエレンは確信した。

(あの女の人……!)

 エレンの脳裏に、あの日の光景が蘇る。あの時、卒団前に兵団のことを色々と教えてくれた先輩団員の女性だ。名前は確か、だったはずだ。の隣に立っているもうひとりの人物は確か、ハンジ分隊長。
 ハンジは淀みない動きでエレンの隣の椅子に腰掛けた。

「やぁエレン! 隣の子は私の班のだ。よろしくね。さあもお座り」
「こんばんは。はじめまして、です。よろしくね」

 エレンの記憶は正しかった。折り目正しく自己紹介してくれたは、どうやら“はじめまして”ではないことを覚えていないみたいだ。そのことに少しだけ落胆するが、すぐに当たり前だよな、と思い直す。訓練兵団はあんなに大勢いたのだから、その中の1人だったエレンのことを認知されていないのは当然だ。
 その後エレンはハンジからの“洗礼”を朝までぶっ通しで受けたわけだが、その日以降もハンジとはちょこちょこ古城へとやってきた。オルオにのことを聞くと、オルオよりも少し先輩で、壁が壊される前から調査兵団にいるらしい。つまり、見た目からは感じさせないが、年はエレンよりも幾分上らしい。そのような旨のことを言うと、オルオは「そんなことアイツに言ったらぶっ飛ばされるぞ」と苦い顔をした。
 それからついに、と話す機会が訪れた。ペトラとエレンが例によって古城の掃除に勤しんでいると、そこにがやってきた。雑巾をかけていたエレンの手が、時が止まったかのようにぴたりと静止した。は部屋の中の様子を窺い、二人を見つけると笑顔を浮かべて、ペトラのもとへと駆け寄った。

「こんにちは、ペトラ。来て早々申し訳ないんだけど、リヴァイ兵長が呼んでたよ。エレンのそばにはわたしがいるように言われてるから、いってきて」
「あら、リオ。兵長が呼んでるの? わかった、いってくる」

 ペトラは心做しか嬉しそうで、声が弾んでいるように思えた。そして急ぎ足で部屋を出ていくと、部屋にはエレンとの二人だけになった。急に心臓が鷲掴みにされたように痛む。エレンは初めての痛みに思わず戸惑い、心臓のあたりを擦る。まさか、なにかの病気だろうか。それとも巨人化の影響だろうか。
 はエレンに向き直ると、にっこりと微笑んだ。

「二人になるのって、初めてだね」

 またエレンの心臓を謎の痛みが襲う。思わず眉根を寄せると、ははっと表情を曇らせた。

「あ、あの、深い意味はないんだよ。不快に思ったらごめんね。大丈夫、不用意に近づかないから警戒しないで」

 慌てたように両手を振りながらが言い、後ずさる。違う、不快なんかじゃない。むしろその逆で……嬉しいと思っている。ずっと心の底で望んでいた場面だ。エレンはなんとか誤解を解きたくて、ほぼ反射的に否定の言葉を発する。

「違います! あの、オレ、むしろ、近づいてほしいっていうか……!」

 何言ってるんだオレ! 近づいてほしいってなんだよ!! と喋りながら即自分に心内でツッコミを入れていくが、残念ながら一度口から出た言葉はなかったことにはできない。の前だといつもの調子が出ずに、頭が真っ白になってしまう。

「じゃなくて、だから、その、そうしてほしいっていうか! ああもうオレは何言ってんだ……!」

 言葉を重ねれば重ねるほどにボロが出てしまい、いよいよ収集がつかなくなってきた。もう何を言えばいいかわからなくて手に雑巾を持っているのも忘れて頭を抱えていると、ふと笑い声が聞こえてくる。を見れば、顔をくしゃっとして笑っている。エレンの視線に気づくと、はまなじりに浮かんだ涙を指で拭い取り、「はー」と実に楽しそうに息を吐いた。

「あんまり必死になって言ってくれるから笑っちゃった。ごめんね、わたしが変なこと言っただけなのに」
「いや、そんな! オレも……話してみたいなって思ってて」

 幾分落ち着きを取り戻したエレンが、思っていたことをぽつりぽつりと紡ぐ。雑巾を握る手に自然と力が籠もった。は「そうなの?」と驚いたように目を見開いた。エレンは食い気味に何度も頷いて言葉を重ねる。

「だからこうやって話すことができてすごい嬉しいんです。この間ハンジさんと来た時も、ほんとはものすごく喋りたかったんです!」

 は何度か瞬いた。

「……そんなふうに真っ直ぐ可愛いこと言われるの、慣れてないもので。照れますな」

 はにかみ笑顔を浮かべてそう言った。
 訓練兵団の卒団目前に壁が破られて、自分が巨人となり、人類の敵と見なされかけて、リヴァイに蹴り飛ばされ、ハンジに朝まで講義をされて……少し思い返すだけでも、ここのところ本当に色々なことがあった。何度も心は折れたし、正直今でもどうしていいのかわからないし、何が何なのかさっぱりだ。
 それでも今だけは、そのすべてのことがすべて記憶の片隅に追いやられて、のことだけで満たされ、エレンの体温が少し上がる。不思議で、同時に初めての感覚だった。

(なんなんだ……この気持ち。さんって一体何者なんだ)

 あとでアルミンに聞いてみよう、と心に決める。ところがそのアルミンに対して、所謂ヤキモチをやくことになることをエレンはまだ知らない。