太陽は沈み、兵舎を照らすのは壁に備えられた燭台で揺らめく仄かな蝋燭の灯りと、手に持った燭台の灯りのみだ。ハンジは手元の灯りを頼りに廊下を慣れた足取りで進み、行き先であるの部屋の前にやってくる。扉をノックするも、中からは何の反応はない。合鍵を使っての部屋に入り込むと、案の定部屋は暗く、家主は不在のようだった。
「失礼するよ」
誰もいない部屋の暗がりに、ハンジの挨拶は吸い込まれていった。廊下から差し込む灯りと、記憶を頼りに部屋の中を歩き、テーブルの上に備えてある燭台を探し出して手持ちの燭台から火を分け与える。暖かな光が部屋をぼんやりと照らし出した。
それからハンジは扉を開けっ放しにしていることに気づいたので閉めて鍵をかけ、椅子に座り込み燭台をテーブルの上に置くと、テーブルの上に置いてある手紙の存在に気づいた。
「ん……?」
その手紙の宛名が『調査兵団 ・様』と書いてあることは普通のことだが、その筆跡が男らしい素朴な字であることが、ハンジの好奇心を掻き立てた。一体誰からの手紙で、何と書いてあるのだろうか。手紙を手に取り、くるくると回して観察する。シンプルな封筒で、特に怪しい点はない。裏面に差出し人の名前は書いておらず、宛名のみが記載されていた。今、ハンジの顔には、誰が見ても『この手紙を見たい』と書いてあることだろう。
「あぁ……見たいなぁ」
好奇心に取り憑かれたハンジではあるが、ハンジの中にもモラルというものがある。他人の手紙を断りもなく見るのはいけないこと、と言うことはちゃんとわかっている。それに勝手に手紙を見たことがバレてしまいに嫌われるのは、最も嫌だった。しかし、興味の対象が目の前にあるにも関わらず、何の手出しもできないことは生殺しに近く、とんでもなく苦痛だ。そもそも視界に入っているのが精神衛生的に問題だ。
ハンジはテーブル上のできるだけ遠いところに手紙を置き直すが、視界から消すことは叶わない。好奇心とモラルがハンジの中でせめぎ合う。
「……はぁ」
ハンジは仕方なく眼鏡をずり上げて、わざと視界をぼやけさせて、手紙を見えないようにした。それでも好奇心をかき消せないハンジは気を紛らわせるために、差出人を推理しようと考えた。
一つの可能性は、家族からの手紙。一番可能性が高いのだが、それならば差出人の名前は書いてありそうだ。差出人の名前を書かないと言うことはつまり、名前が表立つことが好ましくないからではないだろうか。そう考えると、もう一つの可能性は>に秘密裏に繋がっている、調査兵団ではない誰か。
ハンジも手紙をもらうことはよくある。曲がりなりにも分隊長で、リヴァイ程ではないが一般市民にも名は通っているため、陳腐な表現をすれば、ファンレターのようなものも少なからず貰う。けれどは一般兵だ。
(とはいってもは中堅といっても差し支えないか)
どうしても出会った頃の印象がそのまま続いているが、彼女ももう何度も死線を潜り抜けてきた立派な調査兵だ。彼女を応援する人がいたっておかしくはないわけだが、個人宛てにファンレターをもらうほどかと言われれば難しいところだ。
と、そこで鍵が開いてドアが開く音がした。ハンジは反射的にドアを見ると、ゆっくりと扉が開いた。裸眼でぼやけた視界では来訪者が誰なのかは判別がつかないが、輪郭が滲んだシルエットでもその人だということがわかるし、それ以前にこの部屋にやってくる人は一人しか思い当たらない。
「あれハンジさん、先に来てたんですね。ただいまです」
眼鏡をかけ直してはっきりとした視界で、来訪者、と言うより寧ろ部屋の主のを捉える。先程までの団服姿から寝間着姿に着替えていて、タオルを首からかけていて、まだ毛先は濡れている。風呂上がりらしい姿だ。
「おかえり」
もテーブルを挟んだ向かいの椅子に座り込むと、風呂上がり特有の石鹸の匂いがした。は座ると同時にテーブルの隅に追いやられた手紙に気づき、一瞬ハンジのことを窺い見たが、そのことについて触れるわけでもなく、他愛のない話をする。
「今日、ミカサと対人格闘の訓練したんですけど、やっぱりミカサは強いですね」
そしてそのの行動が、ハンジの心にさざ波を立てる。
―――この手紙のことに触れてほしくないの? 何か疚しい事でもあるの?
「ねぇ」
ハンジはの話題には乗らずに、話を切り出した。
「そこにある手紙、誰からの?」
ハンジの言葉に明らかに動揺して目を泳がせているに、ハンジの心のざわめきはより強くなる。
「ええと……」
言い淀む。ハンジはその後の言葉を待つも、中々紡がれず、催促したい気持ちがふつふつと湧いてくるのをなんとか抑える。
「………実は」
ややあって、は重い口を開いた。
「少し前に、出資者になってくださる貴族の邸宅に伺ったのを覚えてますか、ウォール・シーナの」
「ああ、覚えてるよ。名前は忘れたけど、あそこのお坊ちゃんがに興味を持っていたことは覚えている」
ウォール・シーナに住む貴族のもとへ、ハンジ、モブリット、で調査兵団への出資の話をまとめにいったことがある。先方の指名でハンジが選ばれた訳だが、そこの貴族の息子がにやたらと話しかけていた。
まさか、とハンジは考え至る。胸の中のさざ波が強く、激しくなる。
「そこの方から、お手紙をいただいてまして……もちろん、返事はしたことありません」
の話の内容や、言葉から察するに、一度ではなく何回か手紙を貰っているということだ。心臓が嫌に早く動く。別に思い出したいわけでもないのに、邸宅であの男とが楽しそうに喋っている情景が脳裏に浮かんで、ハンジの中に苦いものが広がる。目を瞑ったって、頭から追いやろうとしたって、その情景は不条理にも消えてくれない。
「へえ、そうだったの」
声の端に感情が乗り、語尾が少し震える。それ以上言えば何か嫌なことを感情のまま言ってしまいそうで、なんとか呑み込んだ。別にが悪いわけではないのに、手紙を受け取っているに対して責めたい気持ちまで生まれて、心内がぐちゃぐちゃにかき乱される。それを悟られたくなくて、笑顔を作る。果たしてうまくできているかどうかは自信がない。
するとどうだろう、はほっと安心したような顔になった。深く追求されないことに安心したのだろうか? なぜ? 深く追求されたくないから? ハンジの中に疑心暗鬼が顔を出す。それがトリガーとなり、呑み込んだ感情が質量を増しながら奥底から湧き上がってきて、言葉として放たれた。
「手紙もらって、嬉しかった?」
「え?」
「嬉しかったんでしょ。自分のことを好きな人からの手紙なんて、嬉しくない人いないよね。もしかしてボクが養うから調査兵団を辞めて。とか書いてあった?」
一度言葉にすると、堰を切ったように止めどなく溢れ続ける。嫌な言い方をしている自覚はあるが、どうにも止まらないのだ。もうへの思いやりは何も残っていなかった。あるのはどす黒く苦い感情を煮詰めてできたようなやり場のない凝り固まった感情だけだ。
「本当は返事書いてるんじゃないの? それで何回も手紙が来てるんじゃ……」
言い切る前に、のことをチラと見てハンジはハッと我に返る。が傷ついた顔をしていたからだ。さすがに言いすぎてしまったことを自覚して口を噤む。何をやっているんだ、つまらない感情に振り回されて彼女を傷つけて、情けないったらありゃしない。手紙一つ見つけただけでこんなに心が乱されるなんて。
「ごめん、ウソウソ。そんなこと思ってないよ」
「確かにお手紙はもらって嬉しかったです。でもわたし、返事なんて書いてません」
なにかに耐えるようにが言う。こんな顔にさせてしまったのは全部自分のせいだ。先程までの激昂は嘘のように、今のハンジは自責の念で一杯になった。やがては俯いて、手で顔を覆った。ハンジはオロオロと焦る。
「ごめん、、ごめんよ。泣いちゃった? そんなつもりはなかったんだ」
は何も答えない。その沈黙がますますハンジを焦らせた。椅子から立ち上がりの前にやってきてしゃがみ込む。相変わらず>の顔は手で固く覆われていて、表情は伺えない。
「?」
どうしよう、どうしたらこの固く閉ざされた扉のような手を開けることができるのだろうか。考えることは得意だし、解決のための手法は思いつくほうだが、今回ばかりはその方法が思いつかなかった。つまり、お手上げ状態だ。
やがて、ぷふっと吹き出すような音が聞こえてきた。もう二度と開かないと思われた手は、ゆっくりと離される。見上げたの表情からは怒りも悲しみもなく、寧ろ笑っていた。
「ごめんなさいハンジさん。仕返しです。泣いてません」
ハンジはほっと胸を撫で下ろすと、「あぁ吃驚した……」と呟いての両手を取る。温かい体温がハンジに伝わってくる。
「私が悪かったよ。、本当にごめん、ただちょっと……ちょっと、不安に思っただけなんだ」
「あらぬ疑いをかけられてちょっと嫌な気持ちになりましたが、今のでおあいこってことで。わたしもその手紙を置きっぱなしにして、ハンジさんに勘違いさせちゃいましたし。変な誤解をされないためにも捨てるべきだとは思ってたんですが、お手紙をもらうことなんてなかなかないので嬉しくて捨てられませんでした。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。自分で自分の心の狭さに驚いたよ。カッとなりやすいのは自覚しているが、それをにぶつけるのは良くないことだね。反省してる」
ハンジは立ち上がる。
「……でもさ」
そのままの手を引いてベッドへと誘う。は素直についてきて、ベッドに座らせる。そのままの上体を押し倒して、ベッドに横たえた。ふんわりと石鹸の香りが立ち上り、ハンジの鼻腔をくすぐる。先程まで見上げていたの顔が、今は眼下にある。
「貴女を離したくないって改めて思ったよ。同じようににも、私から離れたくないと思ってほしい。だからさ、私から離れられないように、貴女は私だけなんだって、分からせてあげないとね」
眼鏡を取ると、粗雑にベッドの隅に置いた。ぼやけた視界の中で、噛みつくようなキスをした。