今日は調査団に行く日だ。昨日書き上げた手紙は鞄の中に大事に閉まってある。放課後、古い木造校舎の旧校舎にある調査団本部に行くと、既に何名かいた。

「やぁ。お疲れ様」

 窓から外の景色を眺めていたハンジが片手をあげてを迎え入れた。その隣で立っていたミケは鼻をすんとさせ、リヴァイは三角巾をつけてはたきで掃除に勤しんでいて、を一瞥すると掃除に戻る。は「お疲れ様です」と頭を下げつつ、ペトラとオルオの座る椅子の近くに腰かけて残りのメンバーを待つ。

「ペトラ、わたし、またお手紙書いたの」

 の言葉に、ペトラは一瞬ハンジの方を見そうになる動きを必死にとどめた結果、身体に電流が奔ったように小さく跳ねる。オルオは口を開きかけたが、何も言わずに二人の会話を静観する。

「……そう、いいね。なんか、恋してるって顔してる」

 声を潜めてペトラが言った。あまり自覚のなかったは首を傾げるも、自分よりも自分の顔を見ているペトラが言うのだから、きっとそうなのだろう。しかし恋してる顔というのはどんな顔なんだろう。それとなく窓を覗いてみて窓ガラスに写った自分の顔を見てみたが、よくわからなかった。

「ったく、こんな近くにこんなイイ男がいるっていうのにの目は節穴だな」
「ほんとにキモい」
「シンプルで余計に傷つくっつーの!」

 がなにか言う前に、ペトラがゴミでも見るかのような目でオルオを一瞥して言い放てば、オルオが一気に悲痛な面持ちになる。この二人の掛け合いは息もピッタリあっているし、見ていて本当に面白い。夫婦漫才みたいだなんてからかわれていることもあるが、そう言われても納得してしまうくらいには仲がいいとも思う。間近で二人のやり取りを見ながらそんなことを思った。
 今日の調査団は、久々に遠征をする。遠征というのは、人間が立ち入ることの許されない巨人の領域へ調査に向かうのだ。一年生が新しく入ってきたが、今回の遠征は上級生のみで実施する。残るメンバーであるモブリット、エルド、グンタがやってきたところで、本日の作戦の最終確認だ。巨人中の敷地配置図を机の上に広げて、旧校舎の裏にある巨大樹の森の中に記された三角形を指差しながらハンジが説明をする。

「今日はこのポイントまで行ってみよう。班は二班構成で、私の班が、私、ミケ、モブリット、。リヴァイの班が、リヴァイ、ペトラ、オルオ、エルド、グンタ。右回りルートと左回りルートに分かれて、三角の地点で落ち合う、と」

 ここまでオーケーかい? とハンジが顔を見回して確認すると、皆頷く。もうすぐ遠征が始まると思うと、鼓心臓の動きが早くなる。生物部でも巨人について研究しているので、やはり巨人の圏内に入っていくというのは興味もあるし、圧倒的大きさの巨人の近くに行くと思うと、怖くもある。しかし、皆が一緒ならば、きっと大丈夫だ。
 確認を終えると、早速班に分かれて調査兵団の活動を開始する。

「よし、行くよ」

 いつもどおりの笑顔でハンジが先導する。こんなとき、ハンジのいつもと変わらないこの笑顔が頼もしい。は大きく頷いてハンジのあとに続いた。
 巨大樹の森は、その名の通り巨大な樹々が鬱蒼と密集している森だ。まだ日は沈んでいないが、樹々が空を覆っているため、薄暗いし、気温も低い。巨大樹の森を抜けた先に、巨人の活動領域がある。つまりこの森は人間と巨人との境界領域であることから、巨人と鉢合うことも十分ある。これまでも何度か遠征をしているが、幸か不幸かまだ一度も遭遇はしていないものの、巨人の物であろうものが落ちていることが多々ある。

「今の所、何もなさそうだねぇ」

 キョロキョロとあたりを見回しながらハンジがずんずんと進む。と、そこで、ミケが鼻をスンスンさせて左手を指さした。

「……あのあたり、なにかある」

 ミケは人とは思えないほどの優れた嗅覚を持っていて、ミケがなにかあるといえば、大抵なにかある。ハンジは目を輝かせてミケが指さした方に駆けていくと、「うっほぉー!!!」と奇声をあげて座り込んだ。この奇声が上がったということは、ビンゴだということだ。

「見て! これは巨人が切った爪だよ!! この間もここらへんに爪あったよねぇ? 確か、前々回の調査だったかな」

 たちがハンジの元へとたどり着く頃には、興奮気味に落ちていた爪を拾い上げて天に掲げた。それからハンジはポケットから手帳を取り出して素早く確認すると、「ああやっぱり……」と上擦った声で吐息混じりに呟いた。

「てことは、ここで定期的に爪を切っている子がいるってことだよね」
「そうかもしれませんね」

 が同意すると、ハンジは地図に印を落とす。

「先を急ぐぞ」

 ミケに言われて、ハンジはいそいそと爪を持ってきた瓶に詰めて、道のりを進み始めた。

「爪、持ってく必要あるんですか」

 はハンジの隣を歩いて、気になったことを聞く。

「あるとも! この間の爪との比較をしないとね」

 ふーん、とは興味の無さを隠さずに呟く。には理解ができないが、ハンジにとっては大切なデータなのだろう。楽しそうに瓶の中の爪を揺らして、ハンジは満足気だ。
 ミケを先頭に、モブリット、ハンジ、となんとなく列を成して歩いていると、地面の揺れを微かに感じた。地震? と思うのも束の間、一定のリズムで地鳴りを起こしていることから、足音だと気づく。巨人だ、巨人が走っているのだ。足音はすごい速さで近づいてきて、ミケとモブリットは近くの樹にすっと身を潜める。そうこうしている間に前方から巨人の姿が見えてきた。早く身を隠さないと、思うのに、身体が動かない。心臓だけがすごい早さで動いている。
 と、そのとき、ハンジに手を引かれて走り出していた。足がもつれそうになるもなんとかついていき、あっという間に近くにあった樹に身を寄せた。
 そしてハンジに両肩を掴まれると、背中を樹にくっつけられて、ハンジと向き合うような形になる。ハンジはすかさず壁ドンするように両手をの顔の両脇について、を隠すように覆いかぶった。そうしてはあっという間にハンジに包まれる。足音はどんどんと近づいている。

、大丈夫だよ」

 安心させるように頭を撫でられる。小さく囁いたその声色がとても優しくて、頼もしくて、はこの心臓の高鳴りが巨人への恐怖なのか、ハンジへのときめきなのか分からなくなってしまった。身じろぎ一つできないこの状況の中、ハンジの匂いに包まれて、ハンジの闇に包まれて、ハンジの声に包まれる。巨人への恐怖が段々と薄らいで、どうしてもハンジへの意識が強くなる。
 一瞬とも永遠とも言える時間が過ぎ、足音はいつの間にか聞こえなくなっていた。ハンジはから離れると、顔を覗き込んだ。

「大丈夫かい?」

 ハンジはいつもどおりだ。でもなぜか意識してしまい、とてもかっこよく見えてしまう。ハンジをかっこいいと思ったことは正直なかったが、先程の一件で急速にかっこよく見えてしまう。なんと単純な女なのだろうと思いつつも、抗えない。吊り橋効果というやつなのだろうか、と冷静に考えつつも、この感情を持て余す。

「あ……はい。ありがとうございます」
「それならよかったよ。歩ける?」
「問題ありません」

 なんとなく目が見れなくて、は視線を泳がせながらも頷いた。

(これは吊り橋効果で、脳が錯覚しているだけ。ハンジさんをかっこいいと思うのは、きっと今だけ)

 己に言い聞かせながら、ハンジと二人、ミケたちに追いつくために歩き出した。この感情がもしもの中に残り続けて、どうやっても消せない思いになったならば、それはもしかしたら本当に好きなのかもしれない。しかし、ギタリストへの思いを超えることはきっとないだろう。

「あの子、あんなに急いでどこに行ったんだろうね」
「本当ですね。突然のことだったんでびっくりしました」
に怪我なんてあったら、後悔してもしきれないからね。あでもその時は勿論、私が責任を持ってお嫁さんにもらうけどね」

 いつものハンジの軽口なのに、今のには抜群に効果がある。いつもだったら「はいはい」なんて流しているだろうが、今のは頬を赤らめて何も返せずにいる。それを不思議に思ったハンジがチラとを見た。

「本当に大丈夫? 引き返す?」
「だ、だいじょぶです!」

 これ以上ハンジとふたりきりは精神衛生上良くない。早くミケとモブリットと合流したい一心で、は歩くペースを早めた。
 少し歩くと二人が待ってくれていた。

、大丈夫だったか」

 モブリットはの身体を上から下まで無事かどうか確かめながら聞く。

「ありがとうモブリット。なんともないよ」
「あの巨人の動向が気になるが、ひとまず進むぞ」

 ミケの言う通り、巨人があんなに急いでどこにいったのかは謎で、気になるところだ。しかし、大体いつもリヴァイ班のほうが先に目的地についていて、「遅い!」とリヴァイに文句を言われる。お小言は最小限にしたいため、ここは先を急ぐことにした。

「ミケとモブリットが二人で先に進んで、私とが巨人を追いかけても良いんだよ?」
「追いかけるなら一人でいってください!」

 これ以上ハンジとふたりきりなんて御免だ。が強めに拒否をしたことで、ハンジはしょんぼりと肩を落として、「はーい」と返事をした。