その日の授業が終わると、今日は生物部の日だ。モブリットは今週日直なので、日直の仕事をしてから部活に来る。はモブリットを置いて橙色の光の粒に包まれた放課後の廊下を慣れた足取りで歩き、理科室にやってきた。理科室の奥にある理科準備室ではハンジが飼っている巨人のソニーとビーンが相変わらず狭そうに座り込んでいる。二人にご飯をあげて理科室に戻ると、笑い声とともにジャージに白衣を着たハンジが理科室に飛び込んできた。その後ろにはハリセンを持ったリヴァイもいる。 「あはは、ちょっとくらいいいじゃないかリヴァイー」 「ちょっとじゃねえ! ペットボトルはリサイクルだクソメガネ!」 ハンジとリヴァイは狭い理科室をぐるぐると追いかけっこしている。ハンジはの姿に気づくと、くるっと方向転換をしての後ろ回り込み、の肩を掴んで隠れた。ハンジとリヴァイに囲まれて、は固まる。リヴァイの三白眼がと、の後ろにいるハンジとを行き来する。 「、助けて!」 「チッ。次はただじゃおかねぇからな」 リヴァイは掲げていたハリセンを肩に乗せ、眉根を寄せた。目付きが悪いので睨んでいるように見えるが、おそらく睨んではいない、はずだ。 そしてリヴァイは何かを受信したかのように「今度は玄関か」と呟いて舌打ちをすると、走り去っていった。ハンジはから離れる。 「ありがとう。助かったよ」 理科室の丸椅子に座り、ハンジは朗らかに笑う。も同じように座り込む。 「またごみの分別しなかったんですか? だめじゃないですか」 「わざとじゃないんだよ? 投げて入れようとしたら、不燃に入っちゃったってだけなんだから」 「投げて入れるのがもうだめですよ。あ、ソニーとビーンにご飯あげました」 「ありがとう! はしっかりものだねぇ」 「ハンジさんと比べたら誰だってしっかりものですね」 「はは。ねえ、こんな私、どう?」 ハンジが自分を指さしてに問う。質問の意図がわからずはキョトンとしてしまう。 「まあ、いいんじゃないですか」 適当に答えると、ハンジは嬉しそうに顔を綻ばせて、「ほんと!?」と確認するので、はおずおずと頷く。 「だってそれがハンジさんですし」 「例のギタリストとどっちがいい?」 「どっちが……」 ハンジとギタリスト、にとっては共通点のない二人を比べるのはなかなか難儀だ。髪型が似ているような気もするが、それくらいだ。そもそも比べられるほど、はギタリストのことを知らない。胸がチリチリと痛むが、それが事実だ。 「ハンジさんは話しやすいし一緒にいて楽しいですよ。ギタリストさんは憧れって感じです」 少し考えて、思ったままを伝える。先輩でありながら気を遣わずに話ができるのはハンジくらいだ。それはハンジの気質がなせることだと思う。破天荒だが面倒見が良くて、一緒にいて全く飽きない。ギタリストは逆だ。喋ったことなんて一度もないが、きっと会っても緊張して全く喋れないだろう。そう考えると、今時点での中での印象は真逆だ。 「ふむふむ。なるほどね、わかったよ」 ハンジがほんの少し真面目な顔をして頷いた。そのタイミングで、理科室に人が入ってくる。日直の仕事を終えたモブリットだった。 「遅くなりました、お疲れさまです」 「やぁモブリット、三人揃ったね。今日も元気にやっていこう!」 三人揃ったところで生物部開始だ。生物部と言っても、ほとんどハンジの意向で巨人のことを研究しているので、もはや巨人研究部だ。 まずはソニーとビーンとの散歩だ。二人を引き連れてウォール・マリア内を歩きながら、「そういえば」とハンジが隣を歩くを見る。 「例のギタリストにファンレターは書き上げたの?」 ギタリスト、その言葉に心臓がきゅっと締め付けられた。 「あ……と、結局書けませんでした……何書けばいいのかわからなくて」 「そんな悩むことなの? 書きたいと思うこと全部書いちゃえばいいじゃない」 「それ、昨日エレンにも言われました」 思い出したように笑みを浮かべてが言うと、一瞬ハンジの顔が曇る。は気づかずにそのまま続ける。 「ガツガツして嫌われたくなくて」 「そういえば昨日エレンと一緒に帰ってたね」 探るようにハンジが聞く。その会話をムズムズと聞いているモブリット。事情が分かっているモブリットからすると、不自然なハンジの探りに思わず笑いが込み上げてくる。本当は色々と根掘り葉掘り聞きたいだろうに。 「はい! この間ハンジさんたちと一緒に行ったファミレスでチーハン食べて帰りました」 「へえ……ずるいなぁー私も行きたかった!」 「ハンジさんお金ないじゃないですか」 「、知らないの? 水は無料なんだよ! ねえモブリット」 「ファミレスで水だけなんて追い出されますよ!」 モブリットがツッコみ、面白そうには笑う。いつもどおりの生物部、いつもどおりの日常だ。二人の間の距離は、動き出しそうで、動かない。大縄引きのように、行ったり来たりを繰り返している。 散歩が終わり、理科室に戻ってきた三人は、生物部合宿の打ち合わせを行う。モブリット手製のしおりを実験テーブルに広げて、ハンジが日程を確認していく。 「来週の土曜日、10時に旧校舎に集合。ナナバたちに家庭科室使う許可を貰ってるからご飯はそこで作る。その買い出しを前日の金曜日ね」 生物部の部費はソニーとビーンのごはん代でほぼ枯渇しているので、旧校舎に泊まりこむという、なんとも質素な合宿だ。 「夜はソニーとビーンの体温を感じながら寝るなんてどうかな?」 「却下ですね」 ハンジの提案に対して、モブリットが即答する。 「ええ!? なんで!? 合宿でもない限り二人と一緒に寝るなんてできないんだよ!?」 「一緒に寝て次の日ぺしゃんこになってるなんて嫌です。寝るなら一人で寝てください」 も眉をひそめて断るが、ハンジはなお食い下がる。 「じゃあ二人が寝るまで本を読み聞かせるのは? いいでしょ? いいよねぇ?」 「……要相談で」 モブリットが渋い顔でつぶやいた。合宿と言うよりかはお泊り会みたいな感じに思えてきたな、とは思う。それからまたしおりの読み合わせを再開する。 「あとはそうだね、寮で余ってる布団をかき集めて持ってくるから寝床は心配いらない。旧校舎の掃除はたぶんリヴァイがやるでしょ」 リヴァイのいる場所は基本的にキラキラと輝きが見えるくらい美しい。調査団の本部がある旧校舎だって、もう使われていない部屋にもかかわらずとても綺麗だ。下手したら用務員よりも掃除に精を出している。は心のなかでリヴァイに感謝した。 合宿の内容も確認し終えて、少し談笑をしていると、あっという間に部活動の終わりの時間だ。ハンジは寮に帰り、とモブリットは帰路についた。 は家に帰りすぐに自室の机に向かい合う。宿題をやるからではない、胸に燻っている様々な思いを言語化するためだ。罫線の入ったノートに書いては消し、書いては消しを繰り返して、気が付けば消しカスばかりが溜まっていき、ため息がついて出る。 結局全く書けないまま夕飯を食べ、お風呂に入り、再度机に向き合う。自分は何を書きたいんだろう、伝えたいんだろう、聞きたいんだろう。目をつぶり、頭の中にギタリストを思い浮かべれば、あの日の記憶が鮮明に蘇ってくる。 ―――ステージの上でギターを奏でるギタリストは口元に薄く笑みを浮かべている。彼の動きに合わせて、栗色の髪が緩やかに舞う。そんなギタリストのことをわたしは食い入るように夢中で見つめる。ライブなのに、音はわたしの身体を通り抜けていき、残らない。わたしの五感はすべてギタリストにだけ向いている。 周りは音楽に合わせて拳を突き上げたり、ノったりしていて、そのことに気づいて慌ててわたしも周りに合わせて動きつつ、携帯を構えてひたすら写真を撮った。この記憶は夢なんかじゃなくて、確かにあったものだと紐づけるために。――― 息をするのを忘れるほど、苦しくて色鮮やかで、少しだけ輪郭のぼやけた記憶。 は深呼吸をして目を開いた。この記憶はいつかの中に滲んでいき、やがて取り出すことができないくらい溶けていくのだろう。それは怖いことだけど、どうやったって止められないことも分かっていた。 「……もっと知りたい、思い出がほしいな」 たとえ今ある記憶を掬いだすことが出来なくなってしまったとしても、新しく作り上げた思い出をその人と大切に抱きしめる、そんなことを繰り返していきたい。そんな風に思った。 そこからもう一度シャーペンを握りしめ、ノートの考えをまとめ、手紙にしたためる。時計の針が日付をまたぐ前には何とか書き上げることが出来た。あとは明日、ハンジに渡すだけだ。なんだかとても疲れてしまった。はふらふらとベッドに入り、気絶するように眠りに就いた。 |