エレンが自分の感情に気づいたとき、なるほどな、と納得した。ずっとこの感情がよくわからずにいたから、単純に、最適解を見つけて納得したのだ。しかし次の瞬間には驚き、躊躇い、戸惑い、そういう類の感情でいっぱいになった。この感情はもっと幸せで仕方のないものだと思っていた。エレンの記憶の中のハンナやフランツは、とても幸せそうだったから。 気がつけば目で追っていた。その人のことを考えていた。一秒でも長く一緒にいて時間を共有したいと思っていた。それはなぜか、好きだから。その人―――のことが好きだから。分かってしまえば至極当たり前のことだったが、いかんせん誰かに恋愛感情を抱くことが初めてだったエレンは、なかなか気付くことができなかった。 そして気づいてしまえばどんどんと膨れていき、自分の中だけに留めておけなかった。誰かに聞いてほしくて、すぐに頭に浮かんだのは、同部屋で幼馴染のアルミンだ。訓練を終えて食堂でご飯を済ませ、お風呂に入り、部屋に戻った時、エレンは急いたように「なあアルミン」と口火を切る。アルミンはいつものようにエレンを見て、耳を傾ける。 「オレ、さんのことが好きみたいだ」 「へっ!?」 珍しくアルミンが取り乱して、手に持っていたタオルを落とした。それを慌てて拾い上げたあともアルミンの顔は驚愕の色が色濃く出ていた。彼のまん丸の目が、いつもよりも丸く開かれている。 「今、エレンは、さんのことが好きだって言ったの?」 ゆっくりと、エレンの言った言葉を噛みしめるようにアルミンが復唱する。エレンは深く頷いた。 「あぁ。いや、オレもわかんねぇんだけど、多分そうなんだと思うんだよ」 誰かのことを好きになったことは初めてだから、よくわからないが、きっとそうだと思った。頬を高調させるエレンと対象的に、アルミンは表情を暗くする。 「でもエレン、さんは……」 「わかってる。ハンジさんと付き合ってることくらい」 アルミンの言葉を制するようにエレンが言う。ハンジとは恋人同士で、エレンがと出会う前から二人の物語は始まっている。 「さんがハンジさんを好きなことと、オレがのことを好きなことは、別の話だろ。さんがハンジさんを好きだからって、この気持ちがなくなるわけじゃねぇ」 他の人を好きだったら、その人のことを好きにならないような仕組みだったらどれほど良かっただろうか。しかしそういうわけではなく、一方通行な思いは生まれ続けていく。エレンはベッドに腰掛けると、アルミンは椅子に腰掛けた。 「……そうだね」 アルミンが絞り出すように言った。 「二人の間を邪魔しようなんてちっとも思ってない。ただ、オレの中で生まれたこの気持ちを、なかったことになんてできねぇんだ」 咲くことも枯らすこともできないが、確かにエレンの中に生まれてきた気持ちは、どんどんと大きくなっていく。 「ねえエレンはいつ、どうしてさんを好きだって思ったの?」 アルミンは少し話題の角度を変えて、明るい声で尋ねる。エレンがすべてを承知で、それでも好きなのだというのならば、アルミンから何も言うことはない。そうとなれば、巨人を駆逐することばかり考えていた幼馴染がどうして恋に落ちたのか、とても興味があった。 エレンは目元を細めて、思い出すように斜め上を見上げる。 「気づいたのはつい最近なんだ。どうしてかは分かんねぇんだけど、気がついたらさんのことを考えちまって、何でだろうとは思ったんだ。でも今思い返せば、色んなことの積み重ねで少しずつ好きになっていったんだろうな」 心臓のあたりを擦りながら思い返すのはすべてとのことだ。他人からしたら他愛のないことかもしれない。一緒に喋ったこと、温かい言葉をくれたこと、一緒に料理をしたこと、お菓子をもらったこと。他の誰かとではただの記憶の一部だが、との出来事だとそれは途端に色づいて、大切な思い出になる。そのどれもがついさっきのことのように思い返されて、心臓が生き生きと脈を打つのだ。 「本当に好きなんだね、さんのこと」 「あぁ。めちゃくちゃ好きだ」 不思議なもので、言葉にすればするほどその気持ちが強くなっていく気がした。 「なんだか意外だな。エレンって、そういうことに興味ないと思ってたから」 「オレだってびっくりだよ。なんかもう好きなんだって気づいてから、益々さんのことが気になっちまって、やべぇんだよ……!」 ただひたすらにが好き。そんなエレンの気持ちがアルミンに伝わってきて、にっこりと丸い目を緩めた。この恋が叶わなくとも、幼馴染に幸せが訪れるように、とアルミンは願わずにはいられなかった。 +++ 調査兵団は常に厳しい財政状況の中で兵団運営をしている。そのため、基本的に自分たちでできることはすべてやっている。食事の準備から掃除は勿論のこと、ちょっとした建物の修繕だったら腕のある団員が直す。雑務は基本的に新兵が任される事が多い。今週のエレンは食堂当番だった。同じメンバーはその時にならないとわからないのだが、ここでエレンに幸運が舞い込む。 「エレンも食堂当番なんだね! よろしくね」 なんと、つい先日好きだと自覚したも同じ当番だったのだ。三角巾を頭に装着しながらが快活に笑う。その笑顔が眩しくて、夏の日の空を思わせた。 をハンジから奪いたいわけではない。に振り向いてほしいわけではない。……厳密に言えば、に振り向かれなくたって構わない。ただエレンはが好き、それだけだ。だが、この偶然くらいは喜んでいいだろう。エレンは自然と、誰が見ても嬉しそうな顔をする。 「さんと一緒でめちゃくちゃ嬉しいです! 足引っ張らないように頑張ります!」 「こちらこそ」 「おいエレン、おれもいるからな」 「あ、オルオさん。よろしくおねがいします」 「いや対応が違いすぎるだろ!!」 「さて、今週の献立はなにかな」 オルオを無視しつつ張り出している献立表を見ながら難しい顔をするの横顔を、エレンは食い入るように見つめる。可愛くて仕方ない。年上の女性に対して可愛いと思うのは失礼だろうか、もっといい言葉があるだろうか、と考えるも、何も浮かばない。叶うことならば永遠にこうして眺めていたかった。時間が止まればいいのに。 「どうかした?」 気がつけばが不思議そうな顔でエレンを見る。どうやら時間は止まってくれないようだ。エレンは何度も頭を横に振って、「なんでもないです」と言った。 班員同士で役割を割り振って、それぞれの持ち場につく。エレンとは隣同士並んで、エレンは芋や人参の皮むきを、は野菜を切っていく。 「本当にエレンって手際が良いよね」 エレンの皮むきの手付きを見て、が感心したように言う。途端、見られているという緊張感がエレンの中を走り抜けて、体中の筋肉がこわばった。エレンの手元から芋が転げ落ちる。 「す、すみませーーー」 慌てて拾い上げようとしたエレンの手と、同じく反射的に拾い上げようとしたの手が重なる。エレンの心臓が跳ね上がり、慌てて手を引っ込めた。 「大丈夫? 怪我とかしてない?」 「だだ大丈夫です!」 心配そうな。と触れ合った場所が熱くて、火傷しそうだ。 「なんか耳も赤くなってるし、もしかして体調悪い?」 「ぜんぜん大丈夫です! このとおり元気です!」 ぐっと拳を握って元気をアピールすれば、は「それならいいんだけど」と心配そうな表情をそのままに、引き下がった。 無事調理を終えて、あとは配膳だ。さり気なくの隣のポジションを確保したエレンは、いつものきりっとつり上がった眉毛が心なしか優しく緩められている。時折他愛ない会話を交わしながら、エレンの幸せな時間が過ぎていく。ピークを超えて、食堂利用者もまばらになってきた頃合いに、調理室の扉が開け放たれた。 「!」 調理室内に響き渡るの名を呼ぶ声に、だけでなく調理当番の全員が声の出どころへ視線を遣る。 「ハンジさん、どうかしました」 が声の主ーーハンジーーに不思議そうに声をかける。ハンジは周りの視線など意にも介さず、しか見えていないのではないかと思うくらい彼女だけを見てツカツカと歩み寄る。エレンはその様子を隣で見守る。胸がえぐられたように痛かった。 「今週はが食堂当番なんでしょ? だからちゃんと夕飯食べなきゃと思ってね」 「それなら並ぶのはココじゃないです」 あっちです、とが指差しても、ハンジは頭の後ろで手を組んで、ニコニコとのことを見ている。何かに気づいたは眉根を寄せる。 「しかもハンジさん、お風呂入ってませんね。だめじゃないですか、不衛生な人が調理室入ったら」 「だってがお風呂に入れさせてくれないんだもん」 さも当然かのようにハンジが言ってのけた。の頬に朱が差す。 やはり、当たり前だがはハンジの前だとエレンには見せない表情を見せる。えぐれた傷口がずっと痛みを訴えていて、辛くて苦しい。への気持ちを再認識するには十分すぎるほどの痛みだった。 「もー、リヴァイ兵長とモブリットさんに言いつけますからね。さあ、出てって出てって」 「あはは、モブリットはいいけどリヴァイは勘弁してよね」 に背中を押されてハンジは調理室から出ていった。やってきた静寂は一瞬のもので、すぐにお客さんが来たため配膳作業に移った。 「お前ら風呂も一緒に入ってるのかよ」 オルオがニヤニヤと笑みを浮かべてを小突く。の顔がブワッと茹で上がったように赤くなった。 「入ってない!!」 こんなに大げさに否定すると、かえって怪しい。オルオは「まじかよ」と驚いたように呟き、自分の持ち場へと戻っていく。その背中には「入ってないってば!」と悲鳴に近い叫びをぶつけた。 「どうして……」 ーーーどうして、他の人を好きだったら、その人のことを好きにならないような仕組みじゃないのだろうか。 どうしてを好きになってしまったんだろう。 「どうして?」 が不思議そうに反芻する。エレンは慌てて頭を振り、「なんでもないです」ともごもごと言う。 好き、この気持ちを持て余すくらい大きくなっていくこの想いは、どうやって消化されていくのだろうか。消化できるのだろうか。それは消化なのか、昇華なのか、答えはわからない。 +++ 「ってことが今日あったんだ……」 ベッドに腰掛けて枕を抱えながらエレンがしょんぼりと眉毛を下げる。アルミンは頬をかいて、幼馴染の落ち込みように戸惑う。 「なんでオレと会う前に付き合っちゃうんだよな」 そのまま沈んでいくようにベッドに横たわるエレン。この間は物分りのいいことを言っていたが、今は女々しさすら垣間見える事を言っている。きっとこっちが本心なのだろう。アルミンは苦い笑みを浮かべて、自分のベッドに座り込んだ。 「僕はね、諦める必要なんてないと思うんだ」 エレンの虚ろな瞳がアルミンを捉える。 「さんがエレンのことを好きになって、ハンジさんよりも一緒にいたいと思うことだって十分ありえるだろ。エレンのことを好きになってもらえるように努力することは、エレンに認められた権利だよ」 驚いたように瞳を丸くし、ガバっと起き上がるエレン。アルミンの言葉にじっくりと耳を傾けている。 「誰かを好きになることと、好きな人に好きになってもらえるように行動すること、好きな人に想いを伝えること、好きな人を諦めること、何もせずただ想い続けること。どれもエレンに認められた権利だ。どれを選ぶのも、エレンの自由だよ」 「……ありがとな、アルミン。ほんと、オレじゃ考えつかないようなことをいつも言ってくれて、すげえよ」 「どういたしまして」 先程よりも元気を取り戻したエレンが笑顔を浮かべた。 |