ハンジ・ゾエという名前は、調査兵団内だけに留まらずかなり有名な名前だ。奇人変人の集まりと言われる調査兵団の中でも、群を抜いていると言っても過言ではない。とはいえ、はまだハンジを見かけたことは一度もない。厳密に言えば見たことはあるのかもしれないが、顔と名前が一致していなかった。人類最強と称されるリヴァイ兵長はもう少しで拝めそうだったのだが、丁度人の影に隠れていてどうにも見ることができなかった、と言うことが何回かある。噂によると想像よりも小さいらしい。いつかは見てみたい人だ。 調査兵団としての仕事は訓練だけではない。の場合、普段の訓練の他に、兵士宛の手紙の配達を請け負っていた。そのお陰で様々な兵士の顔と名前が一致している。残念ながらの配達ルートにハンジはいない。もしもハンジ宛の配達を請け負えたら見ることができるのになあ、なんて思案しながら今日も配達のため兵団内を歩いていると、次の配達先の部屋にたどり着く。ミケ班だ。ノックをすると、中から許可の声が聞こえてくるのでは中に入った。 「失礼します。・です。手紙の配達に参りました」 中ではミケ、ナナバ、ゲルガーの三人がいて、それぞれ紙を片手に難しい顔をしていた。ナナバはに気づくと表情を緩ませて紙をデスクに置き、のもとへとやってきた。ふわり、風にのっていい匂いがナナバと共にやってきての鼻腔をくすぐる。このナナバの匂いにはいちいちドキッとしてしまう。 ナナバは手紙をから受け取ると、垂れ目を優しく細めた。 「ありがとう。いつもすまないね」 「い、いえ」 ナナバは面倒見が良くて、新兵のにも何かと気にかけてくれる。月光のように静かな輝きを放つさらさら金の髪に、水面のように深く優しい碧い瞳。近くにいるとフルーティな匂いまでする。甘い垂れ目に微笑まれたらそこら辺の女子は間違いなく胸をときめかせるだろう。兵団内にファンも多い。の周りでは、王子と囁かれている。ナナバは言うならば、手の届かない世界にいる憧れの存在だった。 ああ、今日も心が洗われた。眼福です。と心の中で合掌し、頭を下げて出て行こうとすると、丁度別の誰かが先に室内にやってきた。その人の姿を認めると、の胸がまるでぎゅっと握られたかのように、痛いくらい締め付けられる。 その人はいつも栗色のボサボサでベタついた髪を雑にくくり上げていて、眼鏡をかけている。匂いに至っては、たまに眉根を寄せてしまうほどの匂いがするときがある。しかしはこの人が近くにいると、思わず目で追ってしまうような魅力を感じてしまうのだ。心臓が鷲掴みされたと思ったら、ドキドキと忙しなく脈打つ。とても不思議な感覚だった。 かの人の動線上にがいたため、二人は一瞬向き合う。眼鏡の奥の瞳と視線がぶつかっただけで、不思議な切なさがの中で疼き、頭が真っ白になる。しかし、何か言わねば、と思い言葉を絞り出す。 「お疲れ様です」 震える細い声で言い、道をあける。 「やぁ、お疲れ様」 にっこりと微笑んでの脇を通り過ぎていった。本当は、この場所で立ち尽くし、かの人がどんな話をするのか耳をそばだてていたいところではあるが、そんなことをしていたら不審がられるだろう。最後にナナバに会釈をして部屋から出たところで、ミケの声がやけにクリアにの耳に入ってきた。 「ハンジ、また風呂に暫く入っていないな」 ハンジと、ミケは言った。はほぼ反射的に部屋から出ていた体を回転させ扉に手をかけると、思わず中を覗き込んでいた。 「こないだ入ったばっかりだよ?」 ハンジ、と呼ばれたかの人は頭の後ろで手を組んでそう言った。 ハンジとは、あのハンジ・ゾエだろうか。思わず目で追ってしまい、気がつけば頭に浮かんでを惑わせるかの人は、ハンジ・ゾエだったと言うことか。 「どうかした?」 ナナバがの奇行に気付いて、不思議そうに首を傾げる。 「あの、ナナバさん、ちょっといいですか」 「うん?」 ナナバは扉まで近寄ってくれる。ドキドキと忙しない心音がナナバにまで届いていないか少し心配になるも、は背伸びしながら口元に手を添えてナナバの耳へと近づく。ヒソヒソ話だと察知したナナバは屈んで耳を寄せてくれる。 「今ミケさんと話している方は、ハンジ・ゾエさんですか?」 ナナバから顔を離して言葉を待つと、すぐにナナバが先程のと同じように口元に手を添えての耳元に唇を寄せる。は髪を耳にかけてナナバの言葉を待つ。ふわり、言葉よりも先にナナバの香りが届いた。 「そうだよ」 ナナバは囁きかけるように言うと、顔を離した。 なんと言うことだろうか。あろうことか、素敵だと思っていた方は奇人変人、調査兵団の奇行種で有名なハンジだったとは。何の言葉も継げずただ立ち尽くすを不審に思ったナナバが「どうかした?」と、問うも、は首を横に振った。 「なんでもないです。ありがとうございます。失礼します」 それ以上の追求を恐れてはそそくさと立ち去った。それからも配達を続けるも、気がつけばぼんやりとしてハンジのことを考えていた。たった一言、お疲れ様、と声をかけられただけなのに、何度も脳内でリピートしては、胸の高鳴りを持て余していた。 仕事終えると真っすぐ自室にもどる。立体軌道装置を外すのもだいぶ早くなってきた。慣れた手つきで外し終え身軽になると真っ直ぐ食堂へ向かう。近づくにつれていい匂いが漂ってきて、お腹が空腹を思い出したらしく、ぐうと音を鳴らして訴えた。お腹をさすりつつ歩き、食堂にたどり着いた。夕飯時の食堂は仕事終わりの調査兵団でごった返していた。列に並んで夕食を受け取り見知った顔を探して食堂内を見渡すも、あいにく見当たらなかった。一人でご飯か、と寂しく思いつつ、長い木製のテーブルの端が空いていたため陣取ることにした。 それにしても、とはパンをちぎりつつ今日1日を振り返り、感嘆のため息をついた。まさかハンジが、たまに見かけるあの人だったなんて、本当にびっくりした。 「こんばんは。前、いいかい?」 頭上から声が降り注いで、顔を上げれば、相手が誰かと脳が判別する前に、身体が先に相手を認めた。目に見えない衝撃が身体を通り抜け、息が止まる。今日は何かと縁があるらしい、ハンジがトレーを持っての向かいに立っていた。ハンジはの顔を見て、あれ? と驚いたように言う。 「君、今日ミケたちのところにいた子?」 「はい! ・と申します!」 勢いよく立ち上がり、敬礼をする。握った右手の下で、心臓が早鐘を打ち続けている。まさか覚えてくれていたなんて、なんだか無性に泣きたくなった。 ハンジは笑い声をあげながらトレーを置いて着座した。 「敬礼なんてしなくていいから! まあ座ろうか。改めまして、私はハンジ・ゾエだよ。よろしくね」 もハンジに倣って座り直した。 「よろしくお願いします」 なんだこの神展開は、とは恐ろしい思いになる。今日で運を使い尽くしてしまったのではないかと思うくらい幸運が続いている。 食事をすることを忘れて、目の前でスープを飲んでいるハンジを食い入るように見つめる。あれだけお腹が空いていたのにその感覚は忘却の彼方へと追いやられて、食堂内の喧騒は何一つ耳に入ってこなかった。まるで薄いヴェールが周りにかけられたかのように、外界と隔たれて、ただひたすら目の前のハンジだけに没入していた。栗色の髪はミケの言う通りしばらく風呂に入っていないようで鈍い艶がかかっていて、鷲鼻にいつもかけている眼鏡が特徴的だ。全体で見ても、パーツ一つ一つを見ても、そのすべてがどうしようもなく美しく、尊いものに見えた。目の前でパンを食べるこの人のことを、通りかかるたびに気がつけば目で追っていた。今日初めて声をかけてもらって、また偶然が重なり目の前に座ってご飯を食べている。どうにかして接点を作りたい、と思ったのは自然の流れだった。さて、どうすればよいか。がハンジを眺めながら思案の海を泳ぎ出したそのときだった。 「ねえ、君はさ」 と、言いながらハンジは顔を上げた。ひたすらにハンジを見ていたは慌てて視線を外したが、間に合わずハンジに気づかれてしまった。 「どうかした?」 「あ、いえ!」 慌ててパンをちぎり口の入れると、俯き加減で咀嚼する。恥ずかしくて顔から火が吹きそうだ。硬いパンは口内の水分を吸収していき、ただでさえ乾いていた喉では飲み込むのに難儀した。慌ててスープを飲み込んだ。 「はもしかして新兵?」 「はい、今年入団いたしました!」 両掌を膝の上に置いて答える様はさながら面接のようだった。 「やっぱりね! 見ない顔だと思った」 「ハンジさんは巨人研究の第一人者だと伺っています」 巨人、と言う言葉にハンジが反応したのをは見逃さなかった。ハンジは巨人のことになると目の色が変わることをは調査済みだ。しかしながら調査兵団内では、巨人は倒すべき存在であり、巨人について理解を深めるなどと言うのは異端だと言うものもいる。正直も巨人を理解したいなんて思ったことはない。奴らは仲間を何人も食べている捕食者であり、人類から自由を奪った仇敵だ。殺したいと思ったことはあっても、理解したいと思ったことはない。なぜハンジは巨人に対して興味を持てるのだろう、と単純な興味もあった。 「そうだね。私は巨人に対して理解を深めたいと思ってるよ。もしかして……も?」 窺うように言われ、は一瞬迷ったが、素直に答えた。 「わたしは……巨人に対して恐怖や憎しみを抱いたことはありますが、知りたいと思ったことはないんです。だからわたしは、なぜハンジさんが巨人の研究をしようと思ったのか、知りたいなと思っています」 ハンジが考えていることに少しでも近づきたくては問うと、ハンジは目を見開いて見る見るうちに頬を紅潮させた。 「……いいの?」 声を震わせ、囁くようにハンジが言う。は何度も頷けば、ハンジはテーブルの上に肘をつき、両手を組んだ。 「あれは……そう、私もかつては憎しみを糧に巨人を倒していた」 何度も仲間を食べられた。目の前で仲間を食べられたことだってある。その度に巨人への憎しみも増していく。そんな日々を積み重ねていた。ある日、倒した巨人の斬り落としたパーツを蹴り上げた時に、とても軽いことに気づいた。そもそもあんな巨体が二足歩行できること自体が可笑しいのだ。それからハンジは憎しみを糧に巨人を倒すことから、巨人を解明することへとアプローチの仕方を変えた。しかし根底にあるもの、目指すものは変わらない。――巨人に奪われた自由を取り戻すこと。 「巨人を倒すだけが仕事ならば、“巨人退治屋”とでも名乗るべきだろう? 私たちは、“調査”兵団だ。巨人のことを知り尽くして、どうやったら巨人から奪われた自由を奪還できるのかを考えるべきだ。私たちはいつだって情報が足りない。そして、知らないことは、調べればいい。だから私は、巨人を研究しようと思ったんだ」 目から鱗が落ちるとは、このことだろうか。と同時に、自分が如何に狭い視野で物事を見ていたのかを思い知った。ハンジは巨人を多角的に見て、反撃の糸口を探し出そうとしている。なんてすごい人なんだろう、と改めて思う。膠着した人類と巨人の歴史に新たなページが刻まれるとしたら、恐らくハンジの功績によるものだろう、と殆ど確信に近いようなものを感じる。 「わたし、本当に感動しました……! もう、なんといえばいいのか。世界が変わった気がします。もっと、多角的に巨人を見るべきですね……!」 最初はハンジに近づきたいと言う打算的な心積もりがあった。けれど話を聞いているうちに、ハンジの放つ言葉のすべてにドキドキと胸が高鳴り、高揚感に包まれた。目の前にあるものを、違った角度から見てみれば、思いもよらないものが見えてくる。これは巨人に限らず、すべてに言えることだ。 「本当かい? それは嬉しいなあ! ねえ、じゃあさ、はーーー」 「はい、そこまで! もう時間だから早く食べちゃって、続きは別でやってください」 気が付けばもう辺りには誰もいなくなっていて、ハンジとだけが残されていた。あっという間に時間が過ぎていたらしい。調理当番の兵士に声を掛けられてやっと現実の世界に戻ってきた二人は視線を合わせると、どちらともなく苦笑いを浮かべて、当番の兵士に謝った。急いで夕食を平らげると、トレーを下げて最後にもう一度謝ると、食堂を出た。 「ほんとにごめんねぇ、随分付き合わせちゃったみたいだね! 君がとても楽しそうに聞いてくれるから、ついつい話しすぎちゃったよ」 「とても勉強になりました。すっごく楽しかったです。ぜひまた、お話聞かせてください」 両手を強く握りしめて、ハンジを見上げる。本当に楽しくて、勉強になった時間だった。ハンジの説明は分かりやすく、丁寧だ。途中、楽しそうに喋るハンジの姿に見惚れてしまい聞き逃した部分もあるが、概ね理解できた。ハンジと繋がっていたいと言う気持ちもあるが、純粋にもっと巨人の話を聞きたいという気持ちが強かった。 「え……いいの?」 キラキラと瞳を輝かせるハンジは、何か楽しいものを見つけた時の少年を彷彿させた。 「はい!」 「じゃ、じゃあさ……私なりの巨人についての見解を聞いてもらって、是非とも君の見解も聞かせてほしいなぁ。なんならこの後ーーー」 と、ハンジが言いかけたところで、二人のもとへ小走りにやってくる足音が聞こえてくる。 「いたいた、。ちょっといいかい?」 やってきたのはナナバだった。団服を脱いだシャツ姿でなんだか新鮮だった。それにしてもこんな夜更けにナナバが用事とは、一体どんな用事なのだろうか。 「大丈夫です! ……すみませんハンジさん、また今度でも良いでしょうか?」 「もちろんだよ。今夜はもう遅いしね! また今度。じゃあ私はここで失礼するよ、二人ともおやすみ」 ひらひらと手を振りながら立ち去っていくハンジに、ナナバとはそれぞれ挨拶を口にした。また今度、か。その日はやってくるのだろうか、と思いつつも期待することはやめられなかった。 ハンジの姿が見えなくなるのを確認すると、ナナバは、実はね、と口火を切る。 「用事なんてないんだ」 ナナバは肩をすくめた。はうまく状況が理解できない。 「食堂でがハンジに捕まってるのが見えてさ、どっかのタイミングで助けてあげなきゃって思ってね。ハンジはね、放っておけば朝まで喋り続けるからさ」 「あ、朝まで……」 ナナバは本当に優しい。朝まで一緒にいることが出来たチャンスを逃してしまったと、ほんの少しだけ複雑な気持ちになりつつも、ナナバの優しさに胸が温かくなった。 「さ、兵舎に戻ろう」 「はい、ナナバさん」 ひとまず次の非番では、兵団の資料室で巨人に関することを調べてみようかな、なんて考える。次までには巨人に対する自分の見解をまとめておかなければならない。今日のところは訓練兵団時代の座学資料をもう一度読み直してみよう。どこにしまったっけな、なんて思案しながら、前を歩くナナバの月光みたいな髪を眺めながら、にんまりと頬を緩めるのだった。 Hello,MadScientist (2021.04.21) |