壁の外に何があるんだろう。ずっと、ずっと考えていた。果てのない地平が続いているのだろうか、わたしたちと同じように壁を作って生きている人類がいるのだろうか、なんて色々考えていた。アルミンが言うには、海と言うものがあるらしい。海は商人が取り切れないほどの塩で満たされていると教えてもらったのはほんのちょっと前のことの筈なのに、とてつもなく昔に感じるのは、それだけ多くのことが起きたからだろう。 わたしは昔から、壁の上に立って地平を眺めるのが好きだった。これができるのは、兵団に入った人間の特権だ。下を見たらその高さに足がすくむけど、こんな高い壁の上に立っても果てが見えないんだから、世界は広いんだ。なんて、眺めて思案しては、モブリットさんにぼうっとするなって小突かれたっけ。 そしてその世界を、わたしたちは取り戻したい。そう願って、戦って、進んで、沢山の人を亡くして、その屍の先に世界を見た。それはそれは残酷な世界だった。わたしたちが巨人を憎み、駆逐したいと考えたように、遠く離れたところにいる顔も知らない人たちが、わたしたちのことを悪魔だと蔑み、根絶やしにしたいと思っているのだ。 壁の外には何があるか。もうすぐ答えがある。ハンジさんの読み通り、通称・地獄の処刑人のお陰で殆どの巨人は掃討できたらしい。平野には巨人の姿は殆ど見当たらなかった。馬の揺れがこんなに心地よいのは生まれて初めての感覚だった。何が待っているのか、どきどきして、そわそわした。 暫く進めば草の茂らない砂の大地が広がった。再び鼓動が高鳴る。馬も砂地はあまり走りなれていないため、スピードが緩み、馬が砂を蹴り上げる度に砂煙が舞い上がるので、外套で顔を覆う。そしてその果てには、ウォールマリアほどではないが大きな壁があり、壁に沿って馬を走らせれば壁は途切れて、その先には見たこともないほど大きな水面が眼前に広がっていた。これが、海。あまりに美しい眺望に、わたしは言葉を失って食い入るように見つめた。海は太陽の光を受けて宝石みたいに輝いていて、空には白い雲がふわふわと浮かんでいる。空と海は交わることなく世界の果てで仕切られている。 馬を止めて海のそばの砂地までやってくると、改めて海を見渡す。ちらとアルミンを見れば、彼の碧い瞳は少年のようにキラキラと輝いていた。それこそ目の前に広がる水面のようだった。 「うっへえええ!! これほんとに全部塩水なの!?」 ハンジさんが外套と団服を脱ぎ砂地に投げ捨てると、ズボンの裾をたくし上げて、海の中に飛沫を上げて入っていく。わたしもそれに倣って一緒に海の中に入れば、冷たい水が足のふくらはぎほどまで包み込んだ。まるで海の水が生きているかのように足にまとわりついて、砂地に寄せては帰っていく。 水を両手ですくい、匂いを嗅ぐ。無臭だ。次に不用心ながら舐めてみれば、とんでもなく塩辛かった。慌ててハンジさんを見る。 「は、ハンジさん、しょっぱいです!!」 「おい、よくわかんねぇものを飲むな。アブねえだろうが」 「はーい」 リヴァイ兵長のお叱りも、今はにこにこと聞き流してしまう。リヴァイ兵長は腕を組んだまま傍らの砂地で立っている。ほかの調査兵はみんな童心にかえったように海に入っている。あのミカサが少し離れたところで少女のような悲鳴を上げた。アルミンと、ミカサと目が合って、わたしたちはクスクスと笑い合った。 こんなところまで、きてしまった。たくさんの犠牲と共にわたしは。 目をつぶって耳をすませば、海の水が打ち寄せてくる音が聞こえてくる。脳裏に浮かぶのは、ただガムシャラに壁外を駆け巡ったあの日々だ。わたしの少し前をハンジさんが馬に乗って駆け、「今日はどんな子に会えるのかなぁ!」と楽しそうに笑う。わたしの隣でモブリットさんが「勝手な行動は絶対にやめてくださいね!」と叫ぶ。 あの頃に戻りたいなんて思ったら、怒られるだろうか。それでも、ミケさんが、ナナバさんが、ゲルガーさんが、ニファが、エルヴィン団長が―――モブリットさんが。みんながいたあの頃に。この世界が何かなんて何も分からない、明日をも知れないあの頃に戻りたいと思うのは彼らに失礼だろうか。 わたしたちが支払う代償が分かってる今、過去に戻ったら、わたしは同じ道を進むのだろうか。わたしはきっと、選ばないだろう。でもきっとハンジさんは、それでも選び、進むのだろう。どこまでも真摯に真実を求める人だから。だからわたしも、きっとこの道を進むんだろう。 わたしは、モブリットさんがそうしたように、“そのとき”は、ハンジさんのために捧げたい。ハンジさんの進む道の礎になりたい。 「わ、なんか変なのがある、なんだろう」 「どれですか? うわ、気持ち悪い!」 水面の中にあるのは黒くて太い、焦げたパンみたいなものだった。ハンジさんはそれをひょいと掴みとると、「うほぉぉぉ……」と奇妙な声をあげて、しげしげと見つめる。 「おいハンジ、毒かもしれねえから触るんじゃねえ。揃いも揃って何やってやがる」 やっぱりリヴァイ兵長に怒られる。ハンジさんとクスクス笑い合った。 壁の向こうには海があって、そこには自由が待っているはずだった。けれどこの海の先には敵がいた。いつかこの海の果てから、わたしたちを殲滅するためにやってくるんだ。ライナーたちがやってきたように。 幼馴染3人組が海を目指していたことを、わたしたちは知っている。海は、自由の象徴のはずだった。 「なあ、向こうにいる敵全部殺せば、俺たち自由になれるのか」 海の先を指差して言うエレンの後ろ姿を、アルミンは悲痛な面持ちで見つめていた。誰も何も答えられなかった。 +++ 「ねえ」 「はい」 ひとしきり海を堪能した後、ハンジさんは不意にわたしの名前を呼ぶと、ズボンのポケットから何かを取り出し、おもむろに片膝をついた。せっかく捲り上げたズボンが水浸しになっている。突然の奇行に、わたしは慌てふためく。ハンジさんの奇行はよくあることだが、今度は一体なんなんだろうか。 やがて手のひらの中を見せるように上下に開いた。ハンジさんの手のひらには、小箱があって、その中にはーーー 「、結婚しよう」 太陽の光を受けてキラキラと輝く指輪がそこにはあった。ハンジさんはわたしを見上げながら、優しげに目元を細めている。頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。気がつけば視界がぼやけて、溢れ出た雫が海へと零れ落ちていった。涙も塩辛いけど、海から生まれたのかな、なんて取り留めのないことは思い浮かぶのに、今目の前で起こっている事象については考えられないのだ。 ねえ、ハンジさん。今わたしは、プロポーズをされているのでしょうか。いつかみたいに、また改めてやり直し! なんてことになるんでしょうか。それともわたしは、本当にハンジさんの妻に……なれるんですか? 意思とは関係なく想いが込み上げ、嗚咽が漏れる。拭いても拭いても涙が溢れ出るので、ハンジさんの姿がうまく見えない。ここにいるよ、と言わんばかりハンジさんは手を握りしめてくれる。 「ここにくるまで、本当に色んなことがあった。全部、がいたからここまでやってこれた。これからはきっと、これまで以上に大変なことが待っているだろう」 壁の外の世界を巨人から奪還したら、理想郷が待っていると信じていた。今だって、まだ諦めたわけじゃない。そんなわたしたちを嘲笑うかのように、現実は冷酷な姿を見せた。ハンジさんにはこれまでとは全く違う団長としての役割や責任が伴う。 「私はね、あらゆるものからを守りたいんだよ。だけは何に変えても守りたい。海の向こうに何がいたって、そいつらからも守りたい」 そんなの、わたしだって同じです。そうやって伝えたいのに、嗚咽ばっかりが漏れて言葉にならない。代わりに手をぎゅっと握り返せば、ハンジさんも応えるように握り返してくれるのだ。 「だから傍にいてほしいんだ。命に代えてもを守り抜くから、私を傍で支えて欲しい。人生の伴侶として、ね」 何度も何度も頷く。ハンジさんは立ち上がり、私の左手をとると、薬指に指輪を嵌めてくれる。ちょうどよく入り込んだ指輪のサイズに感動を覚える。 ハンジさん、わたしを選んでくれるんですか。なんだか夢みたいです。 「私と一緒に生きていこう」 わたし強く頷いた。 「よっしゃあああああああ!!!!」 今までの雰囲気そっちのけでハンジさんが片手を大きく天へと振り上げると、飛び上がった。水飛沫が飛び散る。わたしは思わず笑い声をあげてしまった。 こんな残酷な世界の片隅で、大好きな人が結婚して欲しいと言ってくれている。こう言うことを、奇蹟というのだろうか。ぽろぽろと涙をこぼしながら、この幸せを享受する。今は、今だけは。 けれど幸せな気持ちのすぐそばにはチクリと胸を刺す後ろめたい気持ちが確かにあった。わたしだけが幸せになってしまっていいのだろうか、なんて。死んでいった仲間たちに申し訳ない様な気がするのだ。皆が生きたかった今日をわたしは生きている、否、生かしてもらっている。そんなわたしが幸せになっていいのだろうか。 ハンジさんがわたしの身体を腕を回し、あっという間にすっぽりと包まれる。ああ、ハンジさんに抱きしめられている。細身ながら筋肉がついた締まったハンジさんのこの身体が大好きだ。いや、と言うかハンジさんのすべてが大好きだ。いつまで経ってもそれは変わらないし、日々募っていくばかりだ。雪がしんしんと積もっていくように、解けない雪は降り積り、わたしの心をどんどんといっぱいにしていく。 「私は、がいないとお風呂も入らないし、寝ることも食べることも疎かにしてしまう。きっとがいないと私は早死にするよ。だから、私を長生きさせてね」 「なんですその脅しみたいなプロポーズ」 カッコよかったり、はしゃいだり、奇行をしたり、妖艶だったり、緩急が激しいハンジさんにわたしは翻弄されっぱなしだ。もう、堂々と何を言ってるんだか。生き急ぐハンジさんに繋がれた鎖を持つのは、わたしだ。絶対に離すもんか。絶対にわたしよりも長生きしてもらうんだから。 「どんな手を使ったって、貴女をお嫁さんにしたいと思ってるよ?」 身体が離れて手が肩に置かれる。視線が交わると、わたしの心臓が跳ね上がる。 「ねえ、返事を聞かせてよ。頷くだけじゃなくて、言葉にして言って欲しいな」 「あ……えと」 改めて言われるとなんだか気恥ずかしい。視線を彷徨わせていると、ハンジさんが間髪入れずに噛み付くようなキスをする。 「早く言わないと、もっともーっとチューしちゃうよ?」 顔が離されて、ハンジさんがおどける。して欲しいような、して欲しくないような。ハンジさんの顔が今度はゆっくりと近づいてきて、唇が触れるか触れないかのところで止まる。あまりの近さに恥ずかしくて、堪らず目を瞑る。 「結婚、してくれる?」 再度問いかけられる。胸が痛いくらい締め付けられる。答えなんてもう、出会った時から決まってて、揺らぐこともない。 「はい……結婚したいです」 「ありがとう、。愛してる。絶対に幸せにするからね。ねえ、今この時だけは全て忘れてだけを感じさせて、いいでしょ?」 低く囁くようにハンジさんが言うと、唇が何度も何度も角度を変えて重ねられた。普段なら情事に縺れ込むような濃密なキスになっていく。やがてハンジさんの舌が唇の間をすり抜けてやってきたので、慌てて顔を離す。ハンジさんは熱に浮かされた様なとろんとした目だった。間違いなくあのままキスを続けていたら色んなことを忘れて興奮をそのままに、始まっていたかもしれない。やがて状況を思い出したのか、ハッと目を見開き、頭をかいた。 「ごめんごめん」 「おいハンジ。久々にいい話を聞けたのは悪くねぇが、やりすぎだ。ガキどもの教育に悪りぃだろうが」 リヴァイ兵長のお咎めに、ハンジさんは笑い声をあげる。やっぱりと言えばやっぱりだが、リヴァイ兵長に見られていた。しかしどこか穏やかさの垣間見える表情だった。そして気がつけばみんなが遠巻きにわたしたちのことを見ていた。思わず半歩ハンジさんと距離を取る。足元で飛沫が上がり、改めて海にいることを思い出した。 「えっと……つまり、今日は祝いで肉が食べられるということですか」 サシャが神妙な面持ちで尋ねる。 「いや、そうはいってねぇだろ」 コニーが同じように神妙な顔をして答える。 「ハンジさん、さん、本当におめでとうございます」 と、笑顔を浮かべたアルミン。 「ついにさんも人妻か……」 「ジャンはさんのこと結構気になってましたもんね」 「は、はあ!? 俺がいつそんなこと言った!! 変なこと抜かすなサシャ!!」 「マジかよジャン! お前って結構、判断能力が高いやつだけど、こう言うことには全然活かせてないんだな! ハンジさんには敵いっこねえよ!」 「るっせぇ!!!!」 ジャンとサシャ、コニーが戯れはじめる。するとミカサが近くにやってきて、珍しく嬉しそうな顔で頬を上気させている。 「二人が結婚するのはとても嬉しいです。二人はとても素敵な人だから、2人の子どももきっと素敵なのだと思う。どうか、お幸せに」 まさかミカサから子どもの話が出てくるとは思わず、ドキリとするが、あまりエレン以外には感情を出さないミカサがわたしたちのことをそんなふうに思ってくれていたことに、心が温かいものでいっぱいになる。 「ありがとうミカサ! 子どもができたら、ミカサに鍛えてもらうことにしよう」 ハンジさんがミカサの頭を撫でると、ミカサは嬉しそうにマフラーに口元まで埋めると、何度も頷いた。 そしてエレンがやってきた。彼と初めて会った時の溌剌とした力強いあの日の少年の顔はもうない。絶望し、打ちひしがれ、苦しみ、諦観を湛えた眼差し。けれど、確かに彼はエレンだ。みんなここに来るまでに様々なものをなくし、諦めてきた。誰よりも、もがき、苦しみ、重責を負ったのはきっとエレンだろう。 エレンは僅かに口角を上げた。 「さん、ハンジさん、本当におめでとうございます。この先何が起こっても、何が待っていても、俺が二人の幸せを守ります」 「ありがとうエレン。とても心強いな。わたしも、エレンの力になりたいよ」 エレンは微笑む。きっとわたしが力になれることなんて、もう何もないだろう。でも、そう願わずにはいられない。 「全員、今日くらいは全部忘れろ。今この時を楽しめ」 リヴァイ兵長の言葉に、それぞれ頷いた。わたしは幸せを噛み締めていいのだろうか。今だけ、ちょっとだけ。世界は残酷だけど、少しだけ立ち止まって、幸せだ、と思っていいのだろうか。 「よ、明るい話題なんだから、主役は幸せで仕方ねぇってツラしてろ。皆、それを望んでる」 わたしはどんな顔をしているのだろう。リヴァイ兵長の言葉から、幸せで仕方ねぇって顔をしていないことは確かなのだろう。幸せだと感じるほど、戒める様に罪悪感が顔を出す。 「特にモブリットなんかは、酒でも呑みながら泣いて喜んでるんじゃねぇか」 色んな感情が込み上げて、再び涙が溢れ出る。皆の中には、ここにはいない人も含まれていて、喜んでくれていると言っている。リヴァイ兵長は優しい。わたしの心の内なんてお見通しなんだろう。なぜわたしは生き残っていたのだろうか、皆を踏み台にして今ここに立っているんじゃないか、そう思ってしまうことは、幾度もあった。そんな人間が幸せになってはいけないのだ、申し訳が立たない、と言うわたしの気持ちに、そんなことはない、幸せになっていいんだ、と伝えてくれている気がした。 「生きている人間が幸せになることが、多分1番の弔いなんだろうよ」 「わたし、幸せになることが、みんなに対して申し訳なくて……!」 「あいつらがそんなこと思うと思うか?」 ハッとした。そんなわけない。みんなきっと、自分のことのように喜んでくれる。そう言う人たちだ。わたしは首を横に振る。 「、帰って書類を提出したら、みんなに報告に行こう」 「はい、はい、はい……!」 心の中が、ありがとうでいっぱいだ。ありがとう、ありがとう、ありがとう、そしてごめんなさい。 空と海が果てで交わっていて、太陽の輝きがキラキラと水面に反射している。吹き抜ける風はちょっぴりべたついていて、揺らぐ髪の毛が顔に張り付く。左手の薬指には今までなかった違和感がある。幸福感が全身を駆け巡り、生きている、と感じる。隣にいるハンジさんは穏やかに笑んでいて、わたしと結婚したいと言ってくれた。 ああ、幸せだ――― 「必ず幸せにするからね」 もう十分過ぎるほど幸せにしてもらっているけど、わたしは大きく頷いた。ハンジさんの差し出した手にわたしの手を重ねると、ぎゅっと結んだ。このまま二人、海に溶けていっても交われるように、ぎゅっと。 (2021.03.30) 取っ散らかってしまった。 プロポーズの話が書きたかったものです。が、ちぃと暗くなってしまいました。。 底抜けに明るいバージョンも書きたいです。 |