ハンジが久々に風呂に入り、髪を乾かすのもそこそこに自室に戻ってきた。タオルを首にかけて、片手で大儀そうに髪を乾かしている。 既にお風呂を済ませていたは家主が戻ってきたのを認めると、読んでいた本から顔を上げて嬉しそうに顔を綻ばせ、おかえりなさい。と迎えた。 木製の丸テーブルを囲っている椅子に座っているの向かいにハンジも座り、鬱陶しそうに顔にかかっている前髪をかき上げる。その仕草が色気を放っていて、美しいと思う。いちいちときめきを訴える胸が、確かにハンジのことを好きなんだと感じさせた。本にしおりを挟んでテーブルに置いてハンジを改めて眺めると、一点気付いたことがあった。 「ハンジさん髪が伸びてきましたね」 言われてハンジは毛先を一束摘んで持ち上げると、確かに。と大儀そうに頷いた。基本的に自分のことに対しては無頓着なハンジは大抵指摘しないと気づかない。お風呂だって誰かが言わなければ入らないことが多い。自主的に行っているところを見たのは数えるほどしかない。勿論今日もが促したので行ったのだった。そんなハンジだから自分の髪が伸びてきたことに気づかないのも当然と言えば当然だ。普段、邪魔になる部分は結んでいるため気づきにくいと言うのも有るだろう。 「明日、髪切ってよ」 「わかりました。お昼休みでいいですか」 「そうだね! 明日は一日あの子たちと実験だから、髪を切った私の姿に気づくかな?」 あの子たち――先日捉えた巨人の被検体――との実験は明日から始まる。気づくことはないだろうと分かりつつ、ハンジは冗談を言う。は微笑む。 「気づくといいですね」 「でも仮にもし気づいたらさ、巨人には人間と同じように記憶を司る機能があるってことだよね。例えば、美味しそうな人間がある場所にいて、捕食しようとしたところ活動限界がきて眠ってしまったとする。目が覚めた時にその人間のことを探すような仕草を見せたらそれは寝る前のことを覚えているってことだ。まあでも、もし覚えてたら、ウォール・マリアの周りは巨人だらけになってるか。これはボツだな」 気が付けば実験の話になっていて、そして自己完結したようだ。こういう日常の些細な機微から巨人の実験へと結びつけることができるのは想像力が豊かなハンジならではだとは思う。当たり前を当たり前と思わず、疑問を持つことができる人は一体どれくらいいるのだろうか。 「ああでも、記憶に留めて置ける時間が限られているとしたら、ないとも言えないか。しかしこれを研究したところで、反撃の糸口にはならないな。やっぱりボツ」 目を伏せてぶつぶつと呟くハンジの姿は真剣そのもので、このギャップがは好きだった。普段の快活で明朗な様も好きだが、真剣な時の冷静な様も好きだ。そして、先ほど色気漂う様も。ハンジは本当に振り幅が大きくて、の心を掴んで離さない。 美術館に展示されている絵画を眺めるようにハンジをじいっと眺めていると、視線に気づいたハンジがに目をやり、不思議そうに首を傾げる。 「ん?」 「あ……と、ハンジさんって本当に聡明ですよね」 「急にどうしたの。褒めたって、チューくらいしかできないよ」 「わーい」 はは、とハンジは軽やかに笑って再び髪を乾かし始めた。 +++ 翌日、昼休憩の時間にも関わらずまだまだ実験を続けようとするハンジをモブリットが無理やり剥がして、食堂へと向かった。実験が始まるとハンジは寝食をおろそかにしてしまうので、周りがキリの良いところで引上げさせる必要があった。寝るのも食べるのも時間が勿体ないと言うのだが、どちらを疎かにしてもの事故のもとになる。 「いやぁ〜やっぱり実験は良いね!」 なんて食事を摂りながら本当に楽しそうに言う。と、そこでハンジは思い出す。 「! 髪切ってね」 ハンジは前に座るに言うと、丁度パンを咀嚼していたは無言で何度も頷いた。 食事を終えると、は自室からはさみと櫛、それからパッチワークのような継ぎ接ぎの布を持って実験所の資材置き場近くまで急いだ。ハンジはそわそわと被検体を見ていて、今すぐにでも実験を再開したいのがパッと見ても分かった。 「お待たせしました。ではハンジさん座ってください」 近くにあった木箱にハンジを座らせて、継ぎ接ぎの布をハンジの首回りにかける。この布は服の補修の時に使う布の切れ端を縫い合わせて作ったもので、切った髪が服の中に侵入しないようにするためのものだ。 「今日はどうしますか」 はまるで店員のような口調で尋ねる。 「いつも通りでお願いします!」 「はい、わかりました」 ハンジもお客さんのように答えて、早速はさみを入れる。ちょきちょき、と小気味の良い音をたててハンジの伸びた襟足を切っていく。露わになったうなじは白く、綺麗だった。 勿論素人の仕事なので、素晴らしい出来栄えとはいかないが、ハンジは別に気にしない。とにかく邪魔にならなければよいのだ。最後に櫛で髪を梳かし、終わりだ。 「はい、終わりました」 「ありがとう!」 道具を地面に置くと、巻いていた布を取り外し髪の毛を払う。切った髪の毛が襟に入り込んでいたので取り除こうとすると、ふぉ!? と、奇妙な悲鳴を上げて背中を仰け反らせた。 「ごめんなさいハンジさん、首に髪の毛が入ってたんで取ろうとしたんです。大人しくしてくださいね〜」 「うおー! くっすぐってぇぇ!!!」 くすぐったがるハンジが面白くては思わず笑い声を漏らす。無事髪の毛を取り除いて指を離せば、吹き抜ける風に乗って彼方へと飛んで行った。 「は切る?」 「あぁ……せっかくなんでお願いしてもいいですか?」 「任せてよ! さあ、座って座って」 今度はが木箱に座って、布を巻かれる。 「さてお客さん、今日はどうしますか」 今度はハンジが店員さんの振りをして尋ねる。 「お任せでお願いします」 「わっかりました。では失礼しますね〜」 何度かハンジに髪を切ってもらっているので、腕については心配ない。ハンジが髪を切る音が心地よくて、は目を瞑る。このまま寝れたらどれほど幸せなんだろうか、と思いながら頬を撫でる風を感じる。 次は前髪だ。ハンジはの前に回り、前髪を挟み込んで持ち上げる。は切った髪が顔にかからないように少し俯くと、ハンジは丁寧に切っていく。目を開けば、真剣な表情での前髪を見ているハンジ。このままずっと見ていたいが、このまま目を開けていたら目の中に散髪した髪が入り込む危険がある。あれはかなり痛い。でも見ていたい……と葛藤していると、切った短い髪の毛がまつ毛に乗ったのを感じて反射的に目を瞑る。危うく目に入るところだった。そこからは大人しく目を瞑り続けた。 「よしできた!」 「ありがとうございますハンジさん!」 「髪は結ぶ?」 「そうですね、結びます」 「じゃあたまには私に結ばせて」 団服のポケットに入っていたリボンを渡すと、ハンジはの後ろに回って、髪の毛を一束に集める。ハンジに髪をいじられるのが心地よくて、身体がじんわりと温かくなる。しかし首に手を掠めるたび、背中がぞわぞわとして腰が反る。 「お客さん、もしかして首が弱いんですか」 「あっ」 後ろから耳元に囁きかけられ、から抜けるような変な声が出て慌てて口元を手で覆った。 「可愛いんだから。さっきの仕返しだよ」 さっきとは、首から髪を毛を取った時のことだろうか。 「あ、あれはそういうつもりでは――――っ!?」 口元から手を離し反論するも、うなじにハンジの唇が重ねられて再び背中に甘い痺れがはしる。再び口を手で覆うと、ハンジは面白そうに笑って、髪を結ぶ。 「このリボンもだいぶ痛んできちゃったね。また買いに行こうか」 「いいんですか? 実験が落ち着いたら行きたいです」 今使っているリボンはハンジからプレゼントしてもらったもの。月日が経ち、確かに生地が傷んできているのだが、それに気づいて、またプレゼントしてくれると言っている。他人が聞いてもなんてことない会話かもしれないが、にとってはこういう日常の何気ない会話のすべてが宝物だ。 顔だけ振り返りハンジを仰ぎ見れば、目を細めて頷いた。 「約束だよ。よし、そろそろ休み時間も終わるし実験の続きだ」 から布を取り外し、髪の毛を払い落す。布とはさみと櫛とをひとまとめにして、資材置き場の中に置かせてもらう。帰りに忘れて帰らないようにせねば、と心に留めて、二人は実験所へと向かった。 「ハンジさん、巨人に近づきすぎないでくださいね、さっきの台詞、死亡フラグみたいでしたよ」 「あはは! 確かに。、この実験が終わったら私とリボンを買いに行こう……約束だ」 「死亡フラグに寄せた言い方で言い直さないでください!」 (2021.03.14) |