調査兵団の資金は税金で賄われているが、勿論潤沢とは言えない。少しずつ巨人への調査を積み重ねて地道な一歩を積み重ねているも、成果と言う成果が上げられていないのが現状だ。すると、申請した予算もなかなか通らず、年々減らされていく一方だ。そうなると、自分たちで稼がざるを得ないのが現状だ。
 そういった資金を調達するための活動は普段は調査兵団の顔であるエルヴィンが出向くことが多いが、今回はハンジの巨人の実験について興味を持った貴族らしく、ハンジが直々に出向くことになった。エルヴィンはエルヴィンでほかのパトロンに挨拶回りをしなければならないらしく同行は叶わなかった。そこで今回の交渉はハンジと、ハンジのセーブ役としてモブリット、華やかさ担当としても一緒に行くことになった。華やかさ担当なんて務まる気がまるでしないが、かといって断る勇気もなく、は同行を決めたのだった。
 調査兵団のパトロンの多くは土地を取り戻したときに利益を得たい打算的な者たちばかりだ。人類の進撃のため、と言う志を持ったものなどは残念ながら極僅かにすぎない。今回出向く貴族も多少の打算的な心積もりは勿論あるだろう。ハンジの気質からして合わないのは確かだが、先方の御指名とあらば行かざるを得ないし、ハンジとて組織の人間だ。嫌でもやらなくてはならないことぐらいは分かっている。
 いつもの団服ではなく礼装を着てウォール・シーナを三人で歩く。初めてこういった場に出向くは緊張しつつも、斜め前を歩く見慣れない礼装姿のハンジにいちいち胸が高鳴る。普段の団服のハンジも、兵団の外套を羽織るハンジも、寝間着姿のハンジも、私服のハンジも、どんな姿もハンジが生まれてきたことを天に感謝するくらい素敵だ。そんなに対して、ここにきての礼装姿は胸が爆発する案件と言っても過言ではないくらいのときめきを訴える。しかめっ面を隠そうともせず歩くハンジの横顔に、好きです。と心の中でつぶやき続ける。

「あぁ気が重いなぁ」

 はあ、とため息をついたハンジ。

「先方とエルヴィン団長の御指名とあらば仕方ありませんね」

 モブリットが肩を竦める。いつものセンター分けさらさらの髪は、整髪剤できっちり固められている。ハンジも昨日ばかりはきちんとお風呂に入り、いつもの無造作にハーフアップした髪型ではなく、後ろできっちり結んでいる。も前日の夜から三つ編みで寝て、ウェーブになった頭を、兵団一のお洒落番長ことニファに髪の毛をセットしてもらい、いつもとは違うヘアスタイルだ。それぞれの見慣れない姿に、それぞれが新鮮な気持ちを抱く。
 ハンジはちらとの姿を一瞥し、先ほどまでのしかめっ面を引っ込めて笑みを浮かべた。

「でもが着飾った姿を見ることが出来たからむしろプラスかな」

 ハンジの言葉にの心臓が止まりかける。

「それはこちらの台詞です。今日の姿、一生忘れません。目に焼き付けておきます。そして後でスケッチさせてください、モブリットさんに」
「なんで俺なんだよ。自分で描け」
「モブリットさんの方が絵心ありますから」

 なんてやりとりを繰り広げながら、ウォール・シーナの街中から少し離れたところに位置する例の貴族の屋敷に向けて歩みを進める。入り組んだ地形のウォール・シーナは歩くのも一苦労だ。エルヴィンからもらった地図と街とを慎重に見比べながら石畳の道を踏みしめながら行くと、漸くたどり着いた。
 大きな門を潜り抜け、呼び鈴を鳴らせばメイドが現れて中へと案内してくれた。廊下には額縁に飾られた絵画が間隔を開けて飾られている。その絵画の価値がどれほどのものなのかはには判らなかった。
 広間に案内され、丸いテーブルを囲っている華美な椅子に腰かける。調査兵団の宿舎とは天と地ほどの差があるこの屋敷には、どこに目をやっても高そうな美術品やアンティーク家具があった。さすがウォール・シーナの貴族なだけある。この貴族の資産で、一体どれくらいの実験ができるのだろうか、なんて邪推してしまう。どうせなら全資産をハンジの実験費用に充ててくれればいいのに、などと考えていると、芳醇な香りをさせた紅茶が運ばれてきた。それから程なくして、今回の出資者である貴族が現れた。小太りで口ひげをたっぷりと蓄えた男と、その横にいる若い男の息子だろうか。所謂かっこいい部類に入るであろう、たれ目が印象的な色男であった。
 立ち上がり慌てて頭を下げる。息子はを見ると、そのたれ目を細めて優雅に会釈した。それに倣いも会釈をし返すと、にっこりと笑みを浮かべてくれる。

「これはこれは、お初お目にかかります、調査兵団の皆様。あなたがハンジ・ゾエ分隊長ですね。いやぁお若いのにすごい!! 研究や発明に力を入れてるとか。さあさあ座ってください。こちらは私の息子です」

 言われるがまま腰かける。丸いテーブルを、貴族を起点とすると、貴族、息子、、モブリット、ハンジの順に時計回りに囲っている。
 それから貴族に紅茶を勧められ、貴族自身が口を付けたのに倣ってハンジたちも口を付ける。味の違いはよく分からないが、なんだか高級な味……のような気がした。
 とても喋り好きな貴族らしく、出資の話はすぐにまとまると、自分のコレクションの話や、自慢話をぺらぺらと喋って、時折ハンジの実験の話について尋ねた。ハンジは普段見ないような苦々しい表情で相槌を打っている。モブリットとも同様に、傾聴している姿勢を見せ、相槌を打ち続けた。
 その間は隣に座る貴族の息子からの視線に困り果てていた。ちらとが視線を遣れば必ず目が合い、ニコニコと微笑むのだ。もそれに対して微笑み返すのだが、この意味の分からないやり取りに困惑していた。息子を見なければいい話だが、常に隣からの視線を感じていて気になってしまうのだ。

さんも、調査兵団なんですよね?」

 彼の父がハンジ相手に気持ちよくぺらぺらと喋っている間に、に身を寄せて顔を近づけると、こそっと話しかけられる。は声を発していいのか分からず、ひとまず黙って頷く。

「こんな華奢で可愛い方が巨人を倒すなんて、すごいですね」
「いえいえそんなことは……」

 お世辞だと分かってはいるものの、褒められて顔に熱が集中し熱くなる。の頬が赤らんだのを見て、息子はクスクスと上品に笑った。

「本当ですよ。調査兵団に置いておくのがもったいないほどの美人です」
「ご冗談を……」

 こういう時になんと返せばいのか分からない。こんなことならニファと貴族と喋る練習をしておけばよかった、なんて後悔する。嫌な汗をかきながら、苦い笑みを浮かべる。

「今度、ぼくと―――」
「さて!! 私たちは次の壁外調査に向けて仕事に励まねばりなりません。誠に名残惜しいですが、そろそろお暇致します。この度の出資の話については大変ありがたく存じます。今後とも調査兵団にお力添えいただけると幸いです。では、失礼します。行くよ、二人とも」

 突然ハンジが起立し言った。皆ぽかんとするも、ハンジが頭を下げて立ち去ったのに釣られるようにモブリットも立ち上がり会釈してその場を後にし、遅れても続いた。息子が何を言いかけていたのかは気になるが、身体は勝手にハンジのあとをついていく。
 すっかりハンジを気に入った貴族が、また来てくださいね! と門扉まで見送ってくれた。息子もに何かを言いたそうにしていたのだが、それを聞くことなく、いそいそとハンジたちは屋敷を後にした。打算的なところが見え透くような貴族ではなかったが、話好きで相手にするにはなかなか骨の折れる人ではあった。

「ハンジさん、どうしたんですか」

 ウォール・シーナの街中まで来たところでモブリットが問う。運河がゆったりと流れていて、そのすぐ傍では上品な婦人たちが集まって談笑している。その隣を通りすがりながら、ハンジはちらと顔だけ振り返る。

「もう話は終わってたんだからいいだろう? それよりせっかくシーナに来たんだから、何か食べてこうよ」

  ハンジはぐぐっと腕を天に向けて伸ばした。

「はぁ……」

 いまいち腑に落ちていないような様子でモブリットが頷く。もハンジの態度に多少の疑問は抱いていたが、それについて追及する気はなかった。ハンジの提案に特に異論はなかったためモブリット同様、頷いた。
 運河沿いにあるお洒落なお店に入り、テラス席に座る。テラス席から臨む運河は太陽の光を反射してキラキラと輝いている。目の前には礼装姿のハンジがいて、窮屈そうにループタイを緩めていた。

「あーつっかれたぁ。エルヴィンはいつもこんなことしてるのかと思うと頭が下がるねぇ」
「本当ですね。ハンジさんは何を食べますか?」

 ハンジはからメニューを受け取ると、睨めっこしながら、うーん。と唸る。

「この燻製肉が挟んであるサンドにしようかな! とモブリットは? 私の奢りだから好きなものを頼んでよ」

 ハンジから戻されたメニューをモブリットとでじっと見つめる。ウォール・マリアではまず見ない品々と、その値段の高さに目を見張る。何を食べたいのかもさっぱり見当がつかなくて、どんどんと顔が険しくなる。ちら、とモブリットの顔を伺い見れば、彼も渋い顔をしてメニューを見ていた。

「……自分は、ハンジ分隊長と同じもので」

 その手があったか、とははっとする。

「わたしもモブリットさんと同じで」
「ええ〜! 折角なのにみんな同じなの? どうせなら全部頼んでみようよ!」
「絶対食べきれませんよ!」

 モブリットの的確なツッコミに、はクスクスと笑みを零す。結局同じ燻製肉のサンドを三つと、種類の違う紅茶を頼んだ。ただ食べるものを選んだだけなのに、一仕事終えたかのような心持になり、無意識にはふう、と息をつく。

「……あそこのお坊ちゃんさ、絶対に気があると思わないかい?」

 ハンジの言葉には首を傾げる。

「そうでしたか?」
「自分もそう思いました」

 それでもにはピンと来ない。確かに話しかけられたりはしたが、気があるような素振りがあったようには思えなかった。

「気のせいだと思いますよ」
「いーや、気のせいじゃないね。あれは間違いなくデートに誘おうとしていた」

 いかにも面白くなさそうにハンジが顔を顰め、運ばれてきた水を一息に飲み干す。

「あんな若い男がいる場所に、こんな着飾ったを連れて行ったらこうなるに決まってたじゃないか……エルヴィンめ……」
「いやいや、ハンジ分隊長が“が一緒じゃなきゃいかないよ”って駄々こねたからじゃないですか」

 モブリットが呆れたように言う。そんなやりとりが繰り広げられたとはは知る由もなく、心臓がきゅっと締め付けられる。

「そうだったんですか?」
「だっても一緒がよかったんだもん。ドレス姿見たかったし。でも失敗だったなぁ」

 目の前で唇を尖らす恋人が可愛くて仕方ない。は頬の筋肉が緩むのを感じた。そのおかげではハンジの礼装姿を拝めたし、シーナで食事ができるし、恋人がヤキモチをやいてくれている。あのような場に出向くのはもう懲り懲りだが、今日は収穫の方が大きい。

「坊ちゃんからを引き渡すよう連絡があったらどうしよう。エルヴィンには予めその要求には応じられないって言っておく必要があるね」
「なんかわたし誘拐されてるみたいですね」

 神妙な顔でまるで誘拐犯のようなこと言うハンジが面白くて、は笑みを零す。

「もしと結婚することを条件に出資するなんて言ったら、組織の人間と言えど何が何でも渡さないからね」
「なんて想像をしてるんですか分隊長」

 想像力豊かな上官にモブリットが苦笑いした。
 程なくしてサンドと紅茶が運ばれてきて、三人は小さく歓声を上げる。美味しそうな温かいパンとパンとの間に、燻製肉と瑞々しいトマトとレタスがぎっしり挟み込まれている。こんな美味しそうなもの、調査兵団の食堂ではまず見たことがないし、ウォール・マリアでもウォール・ローゼのお店でも見たことがない。

「土地を奪還出来たら、こういうご馳走をそこら中で食べれるんですね」

 はサンドをじっと見つめ、しみじみ言う。壁の上から見る外の世界は、果てが見えない程広大な大地だ。そこを取り戻せば、家畜を山ほど飼えるし、作物だって沢山育てられる。果たして自分たちの代で取り戻せるのだろうか、例え出来なかったとしても、ハンジの進む道はきっと土地奪還の礎となるはずだ。

「そうだよ。私たちの手で取り返すんだ。だから、貴族に嫁ぐなんて言わないでよね。がさっきの家に嫁いで、調査兵団に資金援助したって嬉しくないんだからね!」

 まだハンジの頭には貴族から求婚される可能性が残っているらしい。

「そんな訳ないじゃないですか。きっとモブリットさんが貴族の婿に入って資金を稼いでくれます」
「なんで俺なんだよ、
「はは、よろしくねモブリット! でも調査兵団は辞めないでおくれよ。さて、温かいうちに食べようか」

 いただきます、と呟いてサンドを両手で大事そうに持ち、一口食べる。いつも食べているパンより柔らかいパンと新鮮な野菜と肉を咀嚼する。幸せと言う言葉以外、の頭には浮かばなかった。しかし、貴族たちはいつもこんな食べ物を食べているのかと思うと、幸福感から一変、なんだか虚しい気持ちになる。貴族たちが内地でのほほんと過ごしている間、調査兵たちは命を賭して闘っている。土地を取り戻したその時だって、結局一番利益を得るのは貴族なのだろう。
 虚しい―――しかしこの気持ちも糧にして、明日からも頑張らなければならない。巨人から世界を取り戻すことが出来るのは、たち調査兵団たちだけなのだから。

+++

 兵舎に戻るころには夕暮れ時になっていた。訓練をしていた第四分隊の面々にウォール・シーナで買ったお土産を渡すと、大層喜んでくれた。は着替えるため一度自室に戻ると、ベッドに腰かけて足を投げ出し、寝転んだ。すると間髪入れずにノック音がして、慌てて身体を起こしてドアに駆け寄り開ける。礼装姿のままのハンジがそこにいて、は心臓がきゅっと締め付けられる。

「やあ。今日はお疲れ様。ちょっとだけ話したいんだけどいいかい?」
「は、はい! どうぞ」

 ベッドに並んで腰かける、ちらと隣のハンジを見ると心臓が痛いくらい締め付けられてときめきを訴える。いつもと違う服装をしているだけなのに、こんなにもドキドキしてしまうなんて。



 ぎゅっと横から抱きしめられる。嗅ぎなれない整髪剤の匂いが鼻腔を掠める。

「私が絶対に幸せするからさ。だから、どうか……これからも傍にいてほしい」

 もしかして、貴族との一件をまだ心配しているのだろうか。冗談で言っているのかと思っていたが、こんなにも心配してくれているなんて、嬉しいやら申し訳ないやら複雑な気持ちになるも、結局は幸せな気持ちで胸がいっぱいになる。シーナの街でサンドを食べた時の幸せな気持ちなんて余裕で凌ぐほどの幸福感だった。

「さっきの坊ちゃんに言い寄られても、私の傍にいてほしい」
「勿論です。ずっと、ずっと傍にいます」

 誰かをこんなに好きになる日が来るなんて、思わなかった。今日よりも明日、明日よりも明後日、ハンジのことを好きな気持ちは募っていくのだろう。
 貴族とのことはきっとハンジの杞憂だろうが、こんなにも心配をしてくれて、抱きしめてくれるなら、このまま勘違いしてくれるのも悪くないな、なんて頭の隅で思いながら、ハンジの背中に手を回し、ハンジの首筋にキスをした。