翌朝、ラインハットに向けて旅立った。は幼いころの記憶が何となく蘇ってきて、なんとも懐かしい気持ちになる。自分の背丈くらいある草むらから出てきた、初めて出会ったスライム。なんとか戦ったが全く勝てそうになくて、「助けて」と叫びそうになったそのとき、の前にさっと躍り出た、逞しくそして頼もしい大きな父の背中。あの時の父の背中に少しは追いつけているだろうか。答え合わせをすることは一生叶わないが、そんなことをふと思った。
 ラインハットへの道中、とても面白いことが起こった。襲ってきたスライムを倒すと、むくりと起き上がり、仲間になりたそうな目でのことを見るのだ。はしゃがみ込むと、おずおずと「仲間になる?」と尋ねる。するとスライムは目を輝かせてぴょんぴょんと跳ねる。は馬車を案内すると、嬉しそうに乗り込んでいった。

「ほ、ほんとうに魔物が仲間になった……! すごい!!」

 が思わず拍手を送る。先程までこちらを攻撃していた魔物が、自分を倒したに対して敬意を持ち、改心して仲間になった。通常ではありえない光景だ。もまさか本当に仲間になるとは思わず、を呆然と見返す。

「すげえな、あの爺さんの言うとおりだ。名前は!? 名前はどうする? まさか、スライムっていうのは味気ないよな」

 興奮気味にヘンリーが拳を握る。スライムは馬車に乗り込んだ後、馬のパトリシアの頭に乗っかって、三人の様子を見ている。は、スライムととを見比べて、やがて口を開く。

「スライム
「絶対言うと思った! 嫌です。長いし!」
「そうかなぁ。……うーん」
「スラリンはどうだ?!」

 ヘンリーがキラキラと目を輝かせて提案する。スライムが仲間になったことに一番喜んでいるのはヘンリーかもしれない。スラリン、とは口の中で呟いてその響きを確認する。

「いいね、じゃあ、君の名前はスラリンだ」
「ピキー!」

 が命名すれば、呼応するように跳ねるスラリン。旅の仲間が増えたことを嬉しく思いつつ、ラインハットへの歩みを再開した。
 アルパカ・サンタローズ方面からラインハットへと向かう道中には大きな川が大陸を分断するように流れていて、それを繋ぐために大きな橋が掛けられている。そこを通るための関所が設けられていて、兵士がラインハットへの通行を検閲しているようだった。
 そして行く手を阻む関所の兵士の顔を、とヘンリーは知っていた。特徴的な大きな鼻に、垂れた眉につぶらな瞳。兵士と言うには些か優しそうな顔。二人は顔を見合わせて、懐かしい気持ちを視線で共有する。

「ここから先はラインハットの国だ。太后さまの命令で許可証のないよそ者は通すわけにいかぬぞ」

 兵士の言葉を受けて、兵士の兜を躊躇なくごつんと叩くヘンリー。突然のことに兵士は避けられずまともにゲンコツを食らった。

「ずいぶんと偉そうだな、トム」

 トムと呼ばれた兵士は、新緑の髪を綺麗に切りそろえた青年に名前を言い当てられて、殴られたことも忘れて面食らったように目を見開く。

「相変わらずカエルが苦手なのか? ベッドにカエルを入れておいたときが一番傑作だったな」
「わたしはね、ダメだよって言ったんだよ。でもね、トムのあのときの顔を見たら、笑いが止まらなくなっちゃったんだよね」

 イタズラっぽく笑み腕を組んだ青年と、その横で申し訳なさそうに微笑む女性の姿に、兵士の脳裏に行方不明になった小さな王子と少女の姿が浮かび、目の前の二人に重なる。あの頃の面影を残しながら、けれど確実に大人へと成長している。そのことに気づいた瞬間、トムの頭に花火が上がったかのように閃光が煌いた。

「そ、そんな……まさか……ヘンリー王子様に様……! おなつかしゅうございます、生きてらしたのですね……!」

 トムは感極まり、口元を手で抑えて何度か瞬く。

「久しいな、トム。元気だったか」
「はっ! あれから先代の王がお亡くなりになり、ヘンリー様の弟君のデール様が王に。しかしまだ幼いデール様に政はできず、今でも実権は大后様が……」
「そのようだな」

 苦虫を噛み潰したような顔でトムが語り、ヘンリーも重く視線を落とす。

「思えばあの頃はよかった……今の我が国は―――」
「何も言うなトム。兵士のお前が国の悪口を言えばなにかと問題が多いだろう」
「はっ」

 トムは敬礼をする。トムからしたら、あの頃の天邪鬼で悪戯ばっかしていたヘンリーがこんな大人びた表情を見せるなんて、夢にも思わなかっただろう。ヘンリーからは確かに王家の気品が漂っていた。

「さてトム、通してくれるな?」
「もちろんです!」

 トムは喜んで道を開けて、一行は無事に関所を通ることが出来た。橋を渡りきると日も暮れてきたので今日のところは川のほとりで野営をすることにした。パトリシアに餌をやり、川で水を汲み、薪に使えそうな灌木を探し火を起こすとあっという間に日は沈んでいった。
 火を囲い、パチパチと焚火が爆ぜる音を聞きながら、それぞれの想いを深めていく。スラリンは最初離れたところで火をおっかなびっくり見ていたが、がスラリンを掌に載せて、怖くないよと教えてあげれば、スラリンはだんだんと慣れていき、今はの間で幸せそうに眠っている。
 は焚火を眺めながら、父と旅をしたかつての日々を思い出していた。

「おれ、今日はもう寝るわ。あと頼んでいいか?」

 ヘンリーが立ち上がり、尻に付いた砂を払いながら言う。

「勿論だよ。おやすみ、ヘンリー」
「おやすみなさい」

 が口々に挨拶を述べる。

「おやすみ。スラリン、一緒に寝るぞ」

 スラリンは名前を呼ばれてぱちっと目を開けると、ヘンリーの言葉を理解して一緒に馬車へと戻っていった。
 トムと会ってから、ヘンリーの表情は固さを隠しきれていない。明日、ラインハットに辿り着く―――。一言では語れないような色々な思いが巡っているのだろうと、二人も分かっている。それはもそうだし、もそうだ。
残った二人はどちらともなく視線を合わせて、頷き合った。ヘンリーにはひとりになる時間が必要だろう。
 二人きりになり、はふと頭に浮かんだことを口にする。

「昔、父さんと一緒にこの関所を渡ったときに、父さんがおれを肩車して、川を見せてくれたんだ。あのときから、川は変わってない」
「あのときから少年は、こんなに大きくなったのにね」

 は微笑みで返してくれる。

「わたしはラインハットから出たことがないから、こんな関所があることも知らなかった。はいつもわたしに、世界は広いんだってことを教えてくれるね」
「そんなこといったら、がいつもおれの旅の話を熱心に聞いてくれるから、ヒーローにでもなった気分だったよ。おれはただ、父さんについていっただけなのに」
「ううん、はいつだってわたしのヒーローだよ」

 広い世界を旅して、たくさんの人を助けているヒーロー。レヌール城の王様と王妃の魂を救い、ベビーパンサーを助け、妖精の世界を救い、そしてやヘンリーを助けてくれた。奴隷時代だって、たくさんの人を助けているのを見た。時にはの荷物を代わりに持ってくれたことだってあった。
 ふとの中で、もたげた問いがあった。焚火を眺めながらその問いを投げかけるかどうか迷うも、結局浮かんだ問いをなかったことにできなくて、に投げかける。

「ねえ、にとって、わたしはどんな存在?」

 心臓の動きが早くなっていく。どんな答えが返ってくるのか想像もつかない上に、自分がなんて答えを待っているのかもよく分からない。ただとてもの中で自分がどんな存在なのか聞いてみたかった。
 ちらとを見ると、を見ていた。力強く、そして優しい眼差しに射貫かれて、は息が苦しくなる。その瞳の中に広がる穏やかな海に身体がじんわりと浸かっていくようだった。

「……なんて言えばいいのか分からないんだけど、少なくとも、かけがえのない存在、かな」
「かけがえのない、存在」

 復唱すれば、はまなじりを下げて頷いて、「そうだよ、は、おれにとってかけがえのない存在だ」と、もう一度、親が子によく言って聞かせるように優しく言う。その体温みたいに温かい言葉がじんわりとの中に染み込んでいき、心臓の動きに合わせてゆっくりと身体に浸透していく。

「じゃあにとっておれはどんな存在?」

 からブーメランのように返ってきた問いに、は一瞬考えを巡らせるも、すぐに思いついて悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「かけがえのない存在かな」
「狡いなあ」

 は笑うが、けれどそれは本心だから、それでいいのだ。からは冗談だと取られてしまったかもしれないが、その方がにとっては都合がいい。少しずつ、少しずつの深いところにが根付いて、どんどんと存在が大きくなっている。これからもずっと一緒にいたいと思っている。けれど、

『おれが残って欲しいって言っても……か?』

 昨夜ヘンリーと話してから、気持ちが揺らいでいる。例えヘンリーがラインハットに残ったとしてもの旅についていきたいと思っていた。しかし、ヘンリーのあの寂しそうな顔と声が脳裏に焼き付いて、その気持ちはいとも簡単に崩れてしまった。と離れるなんて考えたくもなかったが、ヘンリーが望むならば、傍にいたいと思った。昨夜のあの言葉はきっと、ヘンリーの本心だろう。しかしきっと彼は、今後その言葉を口にすることはない。彼は優しいから、を困らせるようなことは言わない。

?」

 に声をかけられてはっと我に返る。焚き火を見ながら思案に耽ってしまったようだ。は慌てて頭を振ると、「なんでもない」と笑みを浮かべた。