まるで深海を遊泳しているかのような自由でゆるやかな心地。そんな意識の中にいたのだが、突如聞こえてきた声にその深海から飛び出ざるをえなかった。

「誰か!!」

 助けを求める声。ははっと気付いたら、いつの間にか見知らぬ部屋に横たわっていた。上体を起こし、きょろきょろと見渡す。ベッドか何かがすぐ横にあり、それの両脇に暖かいランプが灯っている。ロアのランプだろうか。
 床にはカーペットが敷いてあり、空を思わせる壁紙も貼ってあるのだが、窓や、外へ出るための扉が何も見当たらない。唯一あるといったら、魔方陣のような円盤が後方にあるくらいだ。全く見たことも来たこともない場所だった。
 確かに部屋で寝たんだけど――と、思い立ち上がったとき、ベッドかと思われた宝石箱のような入れ物の中に女性がいた。

「!?」

 お互い、見つめあい、驚きにしばし固まる。女性の胸元に宝石があった。――つまり、珠魅であるようだった。しかしその核はぼろぼろで、それは外部からの傷ではなく何らかの原因により自然と痛んでいったような核であった。はこの珠魅を見たことがある気がした。ドキドキと心臓が早鐘を打つ。
 脳内が少し落ち着きを取り戻したところで、「どちらさまですか?」という問いをが投げかけようとしたとき、

「ばふあ〜〜」

 これまた突然、妙な声をだして、右上の何もなかったところから急に小さな妖精のようなものが現れた。見知らぬ人が、二人に増えた。

「あなたがたは……誰ですの?」

 女性が首をかしげ、よりも先にゆるやかに問うた。

「誰ですの? じゃないですわよ! あなたが怖い夢ばかり見るから、バクちゃんが驚いて、夢から弾き出されてしまったですぅ! どうして、そんな怖い夢ばかり見てるんですか!? 説明してくださいですぅ!」

 外見同様、妙な語尾な生き物はゆっくりとした女性とは対照的にせかせかと、また可愛らしく怒りながら女性を責めた。
 女性は質問内容に困惑しつつ、不安そうに眉を下げて「うーん」と小さくうなる。

「……私にもわからない。ここにいれば宝石泥棒もこないし、安全なはずなのに」

 宝石泥棒、という単語にの眉がぴくりと動いた。宝石泥棒から匿われていると女性は言った。の思う通り珠魅ならば、彼女は……。
 小さな妖精は悩ましげに言う。

「うーん、こんなことじゃ夢の散歩もできないじゃないのよ……あっ!! 申し遅れました、私、夢魔のベルと申します」
「わたしは、です。気付いたらここにいて……」
「ご丁寧にどうも、私は蛍。フローライトの珠魅です」

 やはり、蛍姫。の目が大きく見開かれ、覚悟していたとはいえ、あまりの驚愕の事態に完全に思考が停止した。これが、蛍姫? 不死皇帝軍との戦いで、たくさんの珠魅のために涙を流し、傷ついた蛍姫? 珠魅の争いの渦中にいる張本人……?
 ひどく動揺しているにかまわず、ベルと蛍姫の会話はつづく。

「どうやら、蛍さんの夢の恐怖心の引力に引き寄せられたようですね。夢の恐怖心の引力の説明は面倒臭いのではしょらせていただきますです。はい」
「私が引き寄せたんですか?」
「そういうことになりますですね〜。夢の構造は複雑なんですぅ。昼間の記憶が夜の夢になり、夜の夢は世界の原形になる。夢を作るのは、自分自身、その夢が変われば現実も変わって行くんですぅ」
「……なんだかよくわからない」
「簡単に言っちゃうと、『楽しい夢を見ましょう』と、それだけの話! 蛍ちゃんの夢の中へ悪い虫を退治に行くため、ちゃんが呼ばれたんですぅ! それじゃあ、準備はいいですか?」

 突然話を振られ、「え?」と間抜けな返事を返す。全然話を聞き流して、自分だけの世界に入り込んでいた。の言葉に、「ですからぁ〜」とまた説明をし始めるが、再びベルの声が耳を素通りしていく。
 憂いを帯びた表情で視線を落としている蛍姫をじっと見つめる。これが、蛍姫……。アレクサンドルがすべての珠魅に背いてまで守りたい人。

――不謹慎ながらも蛍姫がうらやましく思えた。それほどまでにアレクサンドルに想われているのは、からしてみれば憧れのようなものだった。アレクサンドルはアレックスかもしれない。そう思えば思うほど、その憧れは増していく。
 これは瑠璃や真珠、ルーベンスにエメロードにディアナには不躾すぎて絶対に言えない、ここだけの本音。しかし憧れを抱いてしまうと言うことは、たぶん自分の中ではアレックスとアレクサンドルの関係性の仮定を心のどこかで認めているのだろう。二人は別人物だと思いたいのに、けれどもなぜだろう。徐々に確信を帯びていくのだ。

「じゃあ、いきますよ? いいですね? 問答無用ですぅ〜!」

 やっぱり思案の奥深くへ入り込んでいたため話を聞いていなかったのだが、「え?」と再び聞き返したときには目の前が真っ暗になっていた。そしてその次の瞬間には、違うところへやってきていた。

 ここはどこなのだろうか。一面が砂漠だった。空はなく、セピア色の世界を彩っている。何をすればいいのだろうか……。確か、悪夢がどうとか言っていたような気がした。
 ここへきて悪夢を何とかするのだろうか。とりあえず歩いてみる。砂の踏み心地は妙な感じで、砂が足に纏わりついてくるような感じがした。似たような景色がずっと歩くと、突然砂が風に舞い、人型を作る。
 ――瑠璃と、レディパールであった。は立ち止まり、無言で二人を見守る。

「ラピスラズリの騎士、宿命は」

 レディパールが相変わらず表情なく問う。

「………ない」

 しばしの沈黙の後、瑠璃が重い口を開いた。

「守るべき者を持たずに騎士とは言うまい? 天涯孤独の珠魅など、砂漠に転がる石コロと同じだ」

 話の主旨がよくわからない。守るべき者とはすなわち真珠姫のこと。真珠姫は死んでしまったのか? 動揺に胸がいやに速く脈打つが、蛍姫の悪夢の中なんだと言うことを思いだし、納得した。

「蛍姫の涙があれば、俺の宿命は息を吹き返す」
「ふざけるな!! 守るべき者を死なせた脆弱な騎士のために、我が姫の命を削れるものか!」

 レディパールは瑠璃に背を向けて歩き出した。するとレディパールがいた場所に半透明の真珠姫が現れた。

『瑠璃くん……もうあなたのために涙を流せないの……。ごめんなさい……』

 真珠姫はひどく悲しそうな顔で消えた。瑠璃は一歩前へ踏み出し、「真珠姫!」とレディパールを呼び止める。

「真珠姫!! 君を動かす力が怒りだけだと言うなら、玉石の光はこれからも人を傷つけ続けるだろう。太陽が与えた光で輝き、人を癒し、安らぎを与える、俺達に定められた石の宿命。人が奪い続ける限り俺達は怒りの火を灯し、心荒ませ、癒す力を忘れ、それが巡るだけの宿命なら、全てを叩き壊すと言うのか? レディパール! 俺にお前ほどの力は無い。全てを叩き壊す力は無い。俺にできるのは、たった一つ、小さな出口を開けることだけ……」

 瑠璃の悲痛な叫びにレディパールは一瞥もくれず、そのまま歩いていきやがて消えた。取り残された瑠璃は黙り、俯いている。は瑠璃のもとへゆっくりと向かった。近くで見る瑠璃の瞳はなんだか命が宿っていないようだった。ガラスでできた義眼をはめたような瞳で見つめられ、心拍数が嫌に上昇する。

「俺は瑠璃。珠魅の騎士。珠魅には騎士と姫がいて、騎士は姫を守り、姫は涙で仲間の傷を癒すことができる。珠魅の騎士にとって、姫は命に換えても守るもの。俺は自分の姫を守れなかった。それができなかった俺に、騎士として生きていく資格など無い」
「なにいって……」

 最期に悲しそうに笑って瑠璃は砂となって消えた。は砂溜まりを暫くただただ見つめて、歩き出した。

 つまらない景色の中をひたすら何を考えるわけでもなく歩いていくと、再びレディパールと瑠璃が現れた。足を止めて二人を見つめる。

「真珠! もう一度君を守りたい……」
「私は真珠姫ではない。黒真珠を核とする騎士。宿命は蛍石。胸に脈打つ二つの心臓、黒き血の核が本当の私自身。立ち去れ、瑠璃」
「蛍姫には、アレクサンドルという騎士がいる……。君こそが天涯孤独の石ではないのか、レディパール!」
「私の黒き核は一度死んだ。その時に、私は蛍姫をアレクサンドルに託した」
「その黒い核を断てば、真珠姫は戻るというのか、レディパール!」
「やってみるかい? お前の力で」

 瑠璃は剣に手をかけ、険しい表情でレディパールを睨むのだが、やがてその手から力を抜いて下唇をかみ締める。

「レディパール……騎士は、ただ一人の姫を守ればそれでいい。誰もが小さな力を持ち、小さな力を合わせ、一つの民となる。君は何を守ろうと言うんだ!」
「蛍は全ての珠魅のために涙を流した。だから私は戦う。珠魅の脅威となる全ての敵と」

 レディパールはくるりと背を向け、再び立ち去ろうとした。

「俺に背を向けるな、レディパール……お前の背中は、俺の守るべき宿命、真珠姫だ」

 瑠璃の真摯な言葉に、レディパールの歩みが止まる。振り返ろうとしたそのとき、二人の姿は再び砂となり消えた。は気付いた。レディパールの心に宿るものは、憎しみ。珠魅を狙うものすべてへの憎悪。
 アレクサンドルとはまた違った珠魅への思い。彼が珠魅そのものへの憎しみならばレディパールは珠魅を狙うものへの憎しみ。道が重なるはずがなかった。

 蛍姫が助かればそれでいいと戦うアレクサンドル。
 珠魅を脅かすすべてを消し去りたいと戦うレディパール。
 そして、珠魅を悲しみの連鎖から救いたいと戦う瑠璃。

 すべての思いが交わる道はどこにあるのだろうか。