正しさの定義



「っ……」
「瑠璃くん……? 傷が痛むの?」

 突然胸の核を押さえしゃがみ込んだ瑠璃。彼は昨日サンドラによって核を傷つけられてしまったので、もしかしたらその傷が痛んだのかもしれない。

「大したことない。心配するな」

 そういって立ち上がった瑠璃の顔は青白く、胸が痛くなる。確かアレックスが昔、核についた傷の自然治癒には気の遠くなるような年月が必要だと言っていた。それまで瑠璃は傷を隠し、痛みに耐え生きていくしかないのだろうか。歩き出した瑠璃の背中に、言葉を投げかける。

「大したことだよ。わたしが涙石を出せたらいいなってすごい思う」

 瑠璃は立ち止まり、くるりと振り返り苦笑いを浮かべた。

「涙石、か。たとえ出せたとしてもが傷ついてしまうなら俺は遠慮するよ。を犠牲にしてまで自分の傷を治したくはない」
「かっこいいこと言わないでよ、本当に、涙石を流せたらいいのに」

 抗議をしつつ瑠璃に追いつき、そして追い越す。瑠璃もそれに続き、「でも」と反論する。

「本当だ。俺のためにが傷つくなんて嫌なんだ」
「でもわたしは、辛そうな瑠璃くんを見ていられないよ。今すぐ、治してあげたい」
「……ありがとう。その気持ちだけで十分だ」

 そのやり取りはそれで終わったが、いずれもタラレバの話。実際に涙石、或いはそれに値する瑠璃の核を再生できるような力をは持ち合わせていなかった。彼を救いたい気持ちはあるのにそれができない。
 なんともどかしいだろうか。自分にできることならなんでもするから、それで瑠璃の傷を癒してくれればいいのに。
 ああ、と気付く。
 サンドラ――アレクサンドルの気持ちが本当の意味でわかった気がした。頭ではわかっていたが、自分の身に降りかかってはじめて痛いほど理解できた。まして蛍姫は瀕死の状態。それがたとえ人の道を外れた行為だとしても、大切な人を護るためならば――。理性なんてない。あるのは救いたいと言う気持ち。

 わからなくなる。何が正しいのか、何が悪いのか。珠魅のことを知れば知るほど善悪の判断は曖昧になっていき、サンドラの行為が正しくも思えてくる。何も知らない人からすればサンドラのしていることは絶対に許されないことだし、自分だっていけないと思うし、憎しみすら抱いていた。しかし蛍姫のこと、サンドラの過去、珠魅殺しの理由。それらを聞くとわからなくなってしまう。

「瑠璃くん……」
「ん?」
「わたしわからない。アレクサンドラのしてることって、絶対に間違ってるって言えないよね」
「……そうだな」

 蛍姫はたった一人でその命を削り仲間の命を癒してきた。皆、どうにかしなければいけない、と思いながらも心のどこかで蛍姫を犠牲にすることは仕方ないと思い、搾取することをやめなかった。
 それをそばで見ていたアレクサンドルはどんな気持ちだっただろう、無責任な珠魅たちを憎しみ、ボロボロになってしまった蛍姫を救いたいと思うのは自然なことだ。
 これまで蛍姫に癒してもらった珠魅の命を捧げれば、蛍姫の核の傷が癒えるならば。これまで癒してもらった分を蛍姫に返してもらうと思えば―――

「いまわたしね、瑠璃くんの核の傷を治すためならなんでもしたい、って思った。アレクサンドラの原動力ってたぶんそういう気持ちなんだよね。そりゃあ、だからって珠魅を殺していいわけじゃないけど。でも、じゃあどうすればいいんだろう。蛍姫も、アレクサンドルも、他の珠魅も助かるためにはどうすればいいのかな……」

 そんな方法あるのかな、ないなんて思いたくないけれど、でも実際そんな方法は有り得ないと思う自分が居る。現実的に考えて涙石は生み出せないし、死んでいった珠魅は生き返らない。その上でできることは――。わからない。でも何か変わらなくては、だめだと思うのだ。

「わからない。……今だって手探り状態で、答えが掴めそうにない。いくら考えたってわからない。でもルーベンスやディアナ、そしてエメロードは奴に殺された。俺はそのことを忘れやしない。その上で俺は俺の立場から考えたい。も、の立場で考えるんだ」

 わたしはわたしの立場で……。

「そうだね。考えなきゃ」

 何が正しいかなんて、たぶん誰もわからないし、いつまで経ってもわからないのだと思う。だから考えて、正しいと思う道を皆で探さなくては。蛍姫も、アレクサンドルも、瑠璃も、真珠も幸せになれるように。

「お、もうすぐだ。もうこんなところまできたんだな」
「本当だ。早かったね」

 もう最上階らしかった。この先の運命の部屋に、きっと真珠が居るはず。レイリスの塔の運命の部屋が呼んでいるのだからきっと。真珠は再び自分の過去と向き合っているのだろうか。
 暫くぶりに運命の扉と向かい合った。相変わらず天使は苦悩の表情を浮かべて二対いて、過去と向き合うことの辛さをあらわしていた。この部屋で自分は、一体何を知るのだろうか。呼んでいるということは見せたい過去があるということ。

「たぶん真珠はここにいるんだろう。中にいる奴を知るものしか扉を開けれないらしいんだ」
「じゃあ、瑠璃くんお願いね」
「ああ。……っ!?」

 瑠璃が扉に手をかけ力をこめるが、扉はびくともしなかった。それどころか、拒むように扉は瑠璃の手をはじいた。後ずさる瑠璃が、戸惑いの表情を浮かべる。

「俺を拒むのか……? 俺の持つ記憶だけではこの扉は開かないのか? 真珠……」

 打ちひしがれたように呟き、うな垂れた。瑠璃の知らない真珠が、そこにはいる。

『おいで、古の記憶を持つものよ、貴女が開くのです』
「え?」

 また呼びかけられる。古の記憶? と不思議に思うが、瑠璃が駄目だった今、一応微かだが可能性のあるもやってみたほうがよいだろう。は運命の扉に歩み寄り、深呼吸をして扉に手を添えた。
 すると、扉が音を立ててほぼ自発的に開いていく。部屋の中には二人の女性がいた。二人とも真珠のようなシルエットだが、片方は霞んでしまって見えない。前に真珠と一緒にやってきたあのときと一緒であった。二人の女性が向かい合って、何かを喋っている。しかし何も聞こえなかった。
 瑠璃が隣にやってきて、口を動かしている。やがてその映像はぐにゃりぐにゃりかき混ぜられて、フェードアウトした。