『ウェンデルの秘宝』が、ある日突然みんなの記憶から消え去り、廃屋同然になってしまってから、の仕事はなくなってしまった。そこには確かにあったのに、あの人との大切の思い出がそれこそ宝石箱みたいに美しく飾って詰まっていたというのに、まるで最初からそこには何もなかったかのように、忽然と消えていた。
 胸にぽっかりと穴が開いたみたいに虚無感に包まれていて働く気にもなれなかったから仕事を探していなかったが、いい加減働かなければ生活が苦しくなってきた。

「……はぁ」

 はお財布の中身を見て、思わずため息をついた。
 ジオの『ごめんねカール』のティーポとは知らない仲ではないため雇ってくれそうだが、ジオ自体、彼との思い出が色濃く残っているため、足を運びづらい。現に、もう久しくジオには行っていない。『ウェンデルの秘宝』を見るたびに、二度と戻ってこないあの宝物のような日々を思い出して、心が粉々に砕けてしまいそうなのだ。
 それではドミナでどこか働き口を探そうか。と考えて、ドミナと言えばのタマネギによく似た戦士を思い浮かべる。なにか仕事を紹介をしてもらおうか―――と今度は何の予定も書かれていないカレンダーを眺め、思案する。
 彼との日々を忘れたいわけではない、寧ろ、叶うならば一生この胸の中にしまって覚えておきたい。彼との痛くて辛くて苦しい、愛の記憶。彼とのひとつひとつの出来事を、褪せることなく記憶しておきたい。それなのに、手のひらで掬った砂粒が落ちるのを止められないように、日を追うごとに彼との思い出は輪郭が朧げになっていく。けれど、忘れてしまいたいと思う気持ちも存在するのだ。忘れないと、ちょっとずつ心が壊れてしまいそうで。
 彼は好き“でした”といった。そしてそれから会いに来ていない。つまりもう、彼は会うつもりはないということだ。それが何を意味するか、だってわかっている。
 と、思案に耽っていると、ノック音が聞こえてきた。まさか、あの人がきてくれたのか、と先程まで胸を焦がしながら頭の中で想っていた彼の姿が脳裏に浮かび、淡い期待が胸いっぱいに広がり、気が付けば玄関へと駆けていた。逸る気持ちをそのままに扉を開け放てば、そこにいたのは砂マントを被り、深い緑の髪で片目を覆ったよく見知った―――

「……瑠璃くん」

 きっと自分は、あからさまに落胆を顔に出してしまったに違いない。そしてそれを瑠璃も感じ取ったのを表情の機微で分かった。それでも瑠璃はそのことについて何も追求せず、気が付かないふりをしてくれた。

「よお、。突然だけど、明日って何か予定あるか?」

 働かずに家に閉じこもっている自分に予定なんてあるわけない。は苦笑いを浮かべつつ、首を横振る。

「勿論、特にないよ」
「それじゃあ、ポルポタにいかないか」

 港町ポルポタは海に面した街で、巨大な貝殻のような建造物が立ち並ぶリゾート地だった。ホテルに宿泊もできるし、ショッピングモールでお買い物もできるし、レストランで海の幸に舌鼓を打つことが出来る。昔、行ったことがあるが、欠片ぐらいの記憶しか残っていない。潮風がどんな匂いだったのか、白を基調とした街並みがどれほど美しかったか、もやがかかっていて思い出すことができない。瑠璃のお誘いに、は素直に行きたいと思った。

「……いいね、行きたい」

 が笑みを浮かべて頷けば、瑠璃もつられたように笑みを浮かべた。

「本当か。じゃあ明日、迎えに来るから」
「分かった、楽しみにしてるね」
「それじゃあ」

 さっと身を翻して帰ろうとする瑠璃の後ろ姿に、は思わず声をかける。

「もう帰っちゃうの? あがっていけばいいのに」

 先程は“彼”が来たと期待して、落胆したくせして、瑠璃が帰るのだと知るとそれはそれで寂しいと思う。身勝手だとは思うが、それでも言わずにはいられなかった。

「あー……と、ちょっと寄るところがあるんだ」

 瑠璃の多少の歯切れの悪さを感じつつも、も詳しくは聞かない。聞く権利なんて持ち合わせていないのだ。

「そうなんだ。それじゃあ仕方ないね、また明日」
「あぁ、またな」

 今度こそ瑠璃は帰っていった。砂マントが見えなくなるとは扉を閉じて、早速クローゼットに駆け込んで、明日着ていく服を見繕い始めた。いろんな服を鏡の前であてがっては、うーんと首をひねり、また違う服をあてがう。こんなに胸が踊っているのは、久々な気がした。

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 結局、いつもと同じような服装になってしまったがいつもよりは少しだけ上品に見えるようなワンピースにした。それから瑠璃が迎えに来てくれた。玄関を出て、外の空気を肺いっぱいに吸い込むと、天気同様に心も晴れやかになった。

「その……に、似合ってる……な」

 もごもごと瑠璃が言う。はなんのことを言っているのか分からず首を傾げた。

「え? 何が?」

 瑠璃の日に焼けた褐色の肌が、赤らんでいく。

「お、お前の服だ!」
「へ? あ、ありがとう」

 瑠璃くんって人の服装とか褒めるんだ……なんていう野暮中の野暮の言葉は胸の中にしまっておき、は礼を述べた。単純に褒めてもらったのは嬉しかったが、瑠璃に褒められるとなんだかむず痒いというかなんというか。どういう風の吹き回しだろうかと思ってしまう。

「ほら、行くぞ」
「はーい」

 改めて、今日の目的地であるポルポタへと歩き出した。

「ポルポタには行ったことがあるのか」

 道すがら、瑠璃が問う。はうーん、と少し上を見上げる。

「昔に一回、行ったことあるくらいかな。だからあんまり覚えてないんだ。そういう瑠璃くんは?」
「俺はこの間下見に―――」 

 と言って瑠璃は慌てて自身の口を塞いだ。不審に思って瑠璃を見上げれば、しまった! というような顔をしている。

「瑠璃くん、下見いったの?」
「……まあ」

 それ以上を瑠璃は語らなかった。今日のために下見をしていたということだろうか。想像すると愛おしさがこみ上げてきて、くすっと笑ってしまった。
 笑われたことに、瑠璃はムッとしてを見るが、があまりに優しい顔をしていたから、瑠璃は持て余した感情をそのままに、首を掻いた。