その日の夜、懐かしい時代の出来事を夢に見た。まだ父が生きていて、船旅をしていた時のことだ。頼もしい父の後姿と、幼き。自分の手には父が手作りのスラリンがいる。客観的に見たら全然可愛くない継ぎ接ぎだらけのスライムのぬいぐるみが、当時の自分には可愛くて仕方ない、大切な宝物だったのを覚えている。
 船はずんずんと海をかき分け、白波をたてて進んでいく。やがて小さな港に寄港すると、船の持ち主と、その娘が二人乗船した。父は船の持ち主と立ち話に興じる。子どものはすぐに飽きて、娘たちのもとへと向かうのだ。ひとりはおっとりとしていて、腰まで伸びた髪の毛は晴れ渡った春の空みたいな淡い水色だった。もうひとりはツンとつり上がった目が彼女の性格を表しているようで、夜空みたいな黒髪は艶々と輝いていて、その輝きはまるで夜空で星が輝いているようだった。

「あなただあれ?」

 空色の髪の毛の女の子が、愛らしい顔を傾げてに問うた。

だよ」

 それから二人は楽しそうに喋りだす。手持ち無沙汰になった自分は目の前の黒髪の女の子を見る。あたしに名前を聞きなさい、とでも言いたげな視線を受けて、その視線に操られるように口を開いた。

「おなまえは?」

 空色の少女がに問うたように女の子に名前を聞けば、黒髪の少女は眉根を寄せた。

「あんたに教えるなまえなんてないわ」

 まさか教えてもらえないとは思わず、面食らったが、負けじと自分は言うのだ。

「じゃあつぎあったとき、教えてね」
「いいわ。教えてあげる」

 そういって、女の子は勝気に笑んだ。そうか、あの時の君は―――



薔薇の髪飾りを



 翌日、、そしてビアンカは改めてルドマン邸に赴く。昨夜のパーティ会場だった広間はすっかりいつも通りの配置になっていた。
 ルドマンの前にのテーブルにはが手に入れた炎のリングと水のリングが美しく清廉な光を放って置かれていた。ルドマンの横にはフローラがいて、何とも複雑そうな顔をしていた。その原因は、ついに現実味を帯びてきた結婚なのか、それとも突如現れたビアンカの存在なのか。は知る由もない。

「改めて。よくやった。こそフローラの夫にふさわしい男じゃ。約束通り、フローラとの結婚を認めよう。実はもう結婚式の準備を始めておる」

 ほくほく顔で言うルドマンの隣で、フローラがあの、と神妙な面持ちで口火を切る。

「ビアンカさん、もしかしてビアンカさんはさんをお好きなのでは? それにさんもビアンカさんのことを……」

 彼女は一体どんな気持ちで、こんなことを口にしているのだろう。にはおおよそ想像もつかないような感情だろう。そしてなんと優しいのか。このまま黙って結婚を進めていれば、と結婚が出来るのに。あえて彼女はそれを拒んだというのか。

「そのことに気づかず私と結婚して、さんが後悔することになったら私……」

 フローラは俯く。それ以上フローラは言葉を紡ぐことが出来なかった。彼女は何かに耐えるように下唇を噛みしめた。を愛しているからこそ、のことを想っての提案なのか。には到底思い至らないような高尚な考えだった。

「……では、今晩一晩によく考えてもらおう。そして、フローラかビアンカさんか決める。それがいい」

 見かねたルドマンはフローラの気持ちを汲み取り、提案した。なんと懐の深い親子なのだろう、とは感銘を受ける。

「そんな、フローラさんわたしは……」

 ビアンカはそれ以上言葉をつづけられなかった。はっきり否定することも、肯定することもできずにいた。そして静寂が包み込む。
 は周りの様子を伺いつつも、静寂を切り裂くように口火を切った。

「ぼくもそう思います。は休まる時間もない指輪探しの旅で、自分の気持ちと向き合う時間がなかったと思います。フローラさんとルドマン公も認めていただけるのであれば、一晩じっくり自分の気持ちと向き合ってほしい」

 が迷っているのは分かっていた。大切な兄の人生の大事な岐路。願ってもない申し出なのだから、ここは甘えるべきだ。苦労の多い人生を一緒に乗り越えてきたこの兄には、幸せになってほしいし、後悔しないでほしい。

「よし。そうと決まれば、ビアンカさんは今晩、私の別荘に泊まるといい」
「……ありがとうございます」

 ビアンカは深々と頭を下げた。

「さてルドマン公、ぼくからもひとつお願いがあります」
「なんだろうか、くん」


+++


「フローラさんはああ見えて結構度胸があるんだな」
「……ほんとにね。まさかあの場であんなことを言われるとは思わなかったよ」

 宿屋で二人きりになったは、改めて先ほどのルドマン邸の出来事を振り返る。

「実際どうなの。俺の目から見ると、フローラさんのことが好き。でもビアンカ姉さんのことも気になる。そんな自分が嫌になる、てところか」
「さすがは弟。……恥ずかしい限りだけど、そうだね。フローラさんと結婚したい、そう思ってたのに、ビアンカとの時間を重ねるほど、彼女の存在が大きくなっている。俺のこころには、確実にビアンカがいて、無視できない」

 運命的ともいえる二人の女性との出会い。どちらとも結婚出来れば一番良いのだが、それは無理な話だ。どちらの女性でもはよい、ただが幸せならそれで。

「俺はね、兄貴が出した結論で、兄貴が幸せなら、どちらを選んでいいと思うよ。俺は兄貴の幸せが一番だから。それによってどちらかの女性が泣こうが、それはもう仕方ない。あー、フローラさんかビアンカ姉さん、どちらか俺と結婚してくれれば丸く収まるんだけどなあ」
「それは丸く収まるのか? て、いうかこそ、フローラさんのお姉さんとデートいかないと!」

+++

 話は先刻のルドマン邸に戻る。

『さてルドマン公、ぼくからもひとつお願いがあります』
『なんだろうか、くん』
『フローラさんのお姉さんに、デートを申し込みたく存じます』
『なんじゃと!? くん、あの子のことを前向きに考えてくれているのかね……!?』

 先ほどまでの空気が一変し、ルドマンが興奮気味に言う。

『勿論です。このあと、14時に噴水でお待ちしておりますとお伝えいただきたいです』

 もちろんじゃ! と鼻息荒く頷いたルドマンは、早速二階へ駆け上がっていった。

+++

「あれ、もうそんな時間か。ちょっくらいってくる」
「……がどうしようとしているかは分からないけど、俺だっての幸せを願ってるんだからな」
「なんだよ兄貴、急に。兄貴は自分のことだけ考えてればいいんだよ。フローラさんのことも、ビアンカ姉さんのことは今回は考えない。兄貴の本当に結婚したい人を選ぶんだよ。じゃあね」

 いつも自分のことは後回しで周りのことばっかり考えてる。こんな時にも弟のことを考えている兄のお人好し加減はもう生来からのものなので仕方ないが、やっぱりこんな時くらい自分の気持ちに耳を傾けてほしい。今からは一人で向き合う時間だ、そして自身は、の心と向き合う時間だ。
 約束の時間の少し前、噴水の近くへとやってきた。辺りの人気はなく、黒薔薇はまだきていないようだ。噴水の縁に腰掛けて、息をつく。の脳裏には、ぼんやりとした輪郭だが、幼い黒髪の少女が浮かんでいた。
 しばらくすると、石畳の道をヒールで踏み鳴らす勝気な音が聞こえてくる。姿を見る前から彼女の姿が瞼の裏に浮かんで口角が上がる。ゆっくりと視線を上げると、想像通りの光景が広がる。漆黒の髪に真っ赤な薔薇の髪飾り、桃色のドレスを身にまとった一際派手で麗しい女性。

「よ、黒薔薇」

 立ち上がり手を挙げると、黒薔薇はの前で立ち止まり、腕を組んだ。

「パパを使ってあたしを呼び出すなんて、随分なことしてくれるじゃない」
「お父さん、すごく嬉しそうだったぞ。さて、呼び出したのはいいが、何をするかをぜーんぜん決めてないんだ。ただね、」

 は一呼吸おいて続ける。

「伝えたいことは、決まってるんだ」
「……なによ」

 不思議と心は穏やかだった。あの日のさざ波の音が聞こえているような気がした。