薄明るい陽光が、鬱蒼と木々の茂るこの森の奥にもじわじわと染みていくように広がっていく。夜はまさに終わり、朝の気配が近づいていた。さまざまなことを思い返していたら、いつの間にか時間が経っていたようだった。
 翳した刀の背景はまだ夜の闇が広がっているが、じきに陽光に呑み込まれるだろう。刀は黎明牙と言う。まさに今は黎明時で、その名の通りの光景が広がっていた。

「何度もあの契りを破ろうとしたことをここに懺悔します。しかし主君の命は絶対。この、親方様との契りすべてを守り抜きました。そして私が今生き長らえる理由は、ない」

 独白はこの黎明牙に向けて語り掛けているようだった。事実、この刀は親方様――闘牙王――の牙から造られたものなので、黎明牙を通して今は亡き闘牙王への懺悔をしているようなものだった。にとって闘牙王は、まさにすべてだった。闘牙王が生きていたころから亡くなって暫く経つ今まで、ずっとだ。
 今からがしようとしていることは、突発的な思いでやることではないし、覚悟をしたことだ。もはや何の躊躇いもない。けれども覚悟はしていても実際に己に刃を突き立てるとなると中々難しい。かと言って怯んで力を抜けば、自分が苦しむことになる。覚悟はいるが、一思いにやらねばならない。
 こんな時にも、脳裏にちらつくのは“彼女”だった。人生の幕引きを今からしようと言うときだ。こんな時くらい自分の気持ちに正直になってもいいのだろうか。黎明牙は勿論何も答えない。愚かな感情を抱く自分を、どうしようもなく実直にその刀身に写している。驚くほど情けない顔をした自分がそこにはいた。




いざよう月よ




 屋敷はいくつかの柱を残して、真っ黒な炭と化していた。眼前に広がる見るも無残な光景も去ることながら、鼻腔をつく焦げたにおいはあまりいいものではない。は殆ど無意識に眉根を寄せていた。
 は化け猫の妖怪だ。嗅覚は人間とは比にならないくらい優れているため、今すぐ鼻を塞いでしまいたかった。しかし傍らにいる女性にそんなみっともない姿を見せるわけにはいかない。女性――十六夜――は、困ったようにその光景を眺める。
 この焼け落ちてしまった屋敷は、元々十六夜の住まう屋敷だった。しかし先日、家来の謀反によりこのような有様になったのだ。この平安の世の貴族だった十六夜は、一晩にして屋敷から家財、更には家来までを失った。

「もう……住めそうにありませんね」

 殆ど呟くように言った十六夜の肩には、先日亡くなった彼女の夫での主君である、闘牙王から授けられた火鼠の衣がかかっている。闘牙王が十六夜に遺したものだった。そしては同じく闘牙王が遺した守り刀だった。
 十六夜が胸に抱いているのはまだ赤子で、名は犬夜叉と言う。十六夜と闘牙王の子どもだった。人間の十六夜と妖怪の闘牙王との間に生まれた犬夜叉は半妖で、耳がまるで犬のような形をしていた。のような妖怪は、元の姿は勿論妖怪だが、殆ど人間と同じような姿に変化することが出来る。もっとも、すべての妖怪がそうであるわけではない。妖怪によって知性の度合いが違う。知性が低いと人間のような姿にはなれない。闘牙王の犬一族や、の猫一族は知性が高いため、今ののようなほとんど人と同じような姿になれるのだった。細部を見て行けば、耳が尖っていたり、髪の色が違ったりと妖怪の部分が出ているが、パッと見て妖怪だとは分からない。

「私が何とかします。十六夜様、少し時間をください」
「ではわたくしはこの焼け跡から何かお金になりそうなものを探します」
「ええ!? いけません、十六夜様はどうかゆっくりとなさってください。まだお産のあとで、体力を戻すときなのですから」

 今にも焼け跡の中にずんずんと進んでいきそうだった十六夜の前に慌てて躍り出て止める。しかし、と辛そうに顔を歪める十六夜に、の胸がギュッと締め付けられた。彼女の頬には煤がついていて、着ている着物も汚れ、裾の方はボロボロになっていた。本当ならば今頃、屋敷の寝室でゆっくりと体力を取り戻していたところだっただろうに。それが今や、殆ど身一つで住まいだけでなくその家来、大切な夫をも喪った。残ったのは最愛の夫との子だけ。心細かろう、とは思うも、未だに泣き言一つも零さない。彼女は強い女性なのだ。

「しかし、新しく屋敷を建てるにもお金が要ります」

 先の火災ですべてが燃えてしまったため、当然全財産も失ってしまった。それを十六夜は気にしていた。は安心させるように、微笑みを浮かべる。

「人間のお金なら私も多少はあります。しかし、今から屋敷を建てても住めるようになるまで時間がかかります。できるなら既に建っている屋敷を譲っていただくのがよいかと存じますが、いかがでしょうか」

 屋根があり、雨や風を凌げる場所をすぐにでも確保しなければならない。犬夜叉は半分が妖怪の血が流れているためいくらか頑丈だが、そうは言っても赤子だ。産後間もない十六夜や赤子の犬夜叉の為にも、火急に屋敷が必要だった。の言葉に、十六夜は一つ思い当たるものがあった。

「そう……ですね。そういえば少し行ったところに、流行り病でお世継ぎや奥様を亡くされて、今はお一人で住んでいらっしゃる方がいると聞いたことがあります。もしかしたら一時的に住まわせてくれるやもしれません」
「それは有力な情報ですね。伺ってみます」

 ひとまずは十六夜を近くの宿場に連れて行くと、早速噂の貴族の屋敷へと向かう。ぐるりと囲っている外郭はどことなく寂れていて、一目でこの屋敷であろうと分かった。ほかの屋敷と比べて人が住んでいる気配が極端になかった。
 門をくぐれば手入れされずに伸び放題の雑草が至る所にあり、さながら廃屋のようであった。相変わらず人がいる気配ない。歩みを進めると中庭に出て、枯れ果てた池が広がっていた。水が張っていたらさぞ立派な池だっただろうが、ここにも雑草が繁茂していた。相当な年月、屋敷の手入れがなされていないことを物語っていた。

「どなたでしょうか」

 怪訝そうな声が寝殿から聞こえてきた。は声のした方を見れば、御簾越しにこちらを見ているものがいた。恐らくこの屋敷の主人だろう。は一礼をして男性のもとへと近づいた。

「突然の来訪、失礼いたします」

 片膝をついて首を垂れる。

「私はと申します。とある方にお仕えするものなのですが、先日の火災で屋敷を失ってしまいました。かろうじで生き残ったのは当主のお嬢様と、その時生まれた赤子です。失礼を承知で単刀直入に申し上げます。空いている棟がありましたら、私どもを住まわせてくれないでしょうか。ずっととは言いません。新しい屋敷が建つまでで結構ですし、勿論お金もお支払いいたします」

 簡単に、そして一方的にお願いをすると、痛いくらいの沈黙が訪れる。やはりダメだろうか。突然やってきた素性も知れぬ男の願いなど、にべもなく断られるのが普通だろう。どれくらい時間が経っただろうか。どうにも反応がないため次の手を考えようとしたときだった。

「顔を上げてください。お茶でもいかがですか」

 言われた通り顔を上げれば、人の好さそうな老爺が腰に手を添えてを見ていた。身なりは簡素で、見たことのある貴族の中では一番質素な姿をしていた。失礼だが、使用人だと言われれば信じるほどには質素でだった。
 老爺は無言を肯定と判断し、を置いてどこかへ歩いていく。そのままの姿勢ではずっと待ち続けた。老爺が戻ってくると、片膝をついたままで止まっているを見て微笑んだ。

「ここへいらっしゃい」

 老爺が縁側に座り込み、その隣をぽんぽんと叩いた。おずおずと座ると、老婆が茶を二つ持ってきて二人の間に置いてそのまま下がった。

「貴方は妖怪ですね」

 茶を一口飲み、何てことないことのように老爺が言う。まさかさらりとそんなことを言い当てられるとは思わず、は自身の気がぴんと張るのを感じた。

「わしは流行り病で家族を亡くしましてね、今はもうわし一人になってしまいました」

 の言葉を待つことなく、そのままの調子で老爺は続ける。
 この老爺のように、流行り病で世継ぎを亡くして一族が滅亡するというのは珍しい話ではなかった。人間と言うのは儚い生き物だ、とは思う。寿命は短く、力もない。やっと産まれた子だって大人になれるのは極僅かだ。

「きっとそれを知っているから、きたのでしょう。見ての通り、もうわしにはこの屋敷以外何も残っていませんし、使用人も先ほどのものしか残っていません。これも何かの巡り会わせでしょう、好きな棟を使ってください」
「……よいのですか?」

 妖怪をよく思わない人間が殆どだ。それをは分かっているからこそ、本当に良いのか尋ねる。妖怪であるにとって横で茶を啜る小さな老爺を力で服従させるのは、簡単なことだ。勿論はそんなことはしないが、しかし多くの妖怪は力を使って人間に悪さを働く。だから人間は妖怪を疎んでいるし、恐怖心を抱いている。けれど老爺からはそのような感情を感じなかった。それが不思議だった。

「貴方のような妖怪が仕えている方がどんな方なのか、とても気になりますからね。お金はいりません。ただし、貴方たちを養うような蓄えはありませんからそこは何とかなさってください」

 見た目こそより年上だが、実年齢で言えば間違いなく年下だ。それでもこの老爺が一体何を考えているのかには見当もつかなかった。が妖怪だと知った上で、屋敷を使っていいと言っている。勿論お願いをしているので願ったり叶ったりなのだがどうにも拍子抜けしてしまう。
 そんな様子を見かねた老爺が、安心させるように微笑みを浮かべた。

「人生の終わりが見えてくると、大抵のことは鷹揚になるものです。妖怪と一緒に暮らすなんて面白いではないですか。貴方は見たところ、悪さをするような妖怪には見えない。この頃は都も荒れ果ててますからね……心強い用心棒がいると思えばかえってありがたいものです」
「……感謝申し上げます」

 老爺に対して深く深く頭を下げた。老爺の言葉に、の心がまるで日向ぼっこしているかのようにじんわりと暖まるのを感じた。
 もっと人間と妖怪は分かり合えるはずだ、十六夜と闘牙王が愛し合ったように。すべての人に受け入れてほしいとは言わないが、こうやって受け入れてくれる人が少しずつ増えてくれるといい。そのために心を砕きたい、そう思える。こんな気持ちを抱くのはきっと、亡き主君と十六夜のお陰だろう。

「顔を上げなされ。わしは藤堂と申します。さっそく連れてきてください」

 こうして、藤堂氏の邸宅にお世話になることが決まった。