それから犬夜叉の夜泣きが続いた。その度に十六夜は乳をあげたり、抱っこをして歩き回ったりと一生懸命犬夜叉をあやす。その姿を見守りつつも、あわあわするだけで何もできない自分を情けなく思う。強くなるために修行は幾度となくしたが、育児については一度の経験もなかった。少しずつ育児についても学んでいかなければ、と固く誓った夜だった。

(しかし……お乳をあげているときなんかは私はむしろ遠ざかり、誰も立ち入らぬように見張るのがよいか……)

 様々なことを悶々と考えていると、もともと眠りは浅いが、その夜は一睡もできなかった。



03 



 翌日、藤堂の屋敷へと早速向かった。道中はおくるみに入った犬夜叉を、が抱えてゆく。からすればこの赤子の重さは綿毛ほどだが、十六夜の細い腕ではそこまでの重さではないにしても、長い間抱いていれば疲れてしまう。犬夜叉は十六夜の腕から離れてもすやすや眠っているため、幸いであった。昨日の夜は寝たり起きたりで、きっと犬夜叉も疲れているのだろう。
 なるべく犬夜叉に歩く振動が伝わらないようにと注意を払って歩く。それから十六夜の歩幅にも気を遣って歩かなければすぐに引き離してしまう。闘牙王と一緒に動くことが多かったため、その歩幅は大きく、いつも置いていかれないように追いかけていた。十六夜は小柄な女性で、着物を着ているため一歩一歩が小さい。追いかけるのは十六夜の方だ。これからは亡き主君の奥方である十六夜のあとをはついていくのだ。歩幅についても意識せねばならない。
 犬夜叉に気を取られ過ぎると十六夜をおざなりにしてずんずん進んでしまい、十六夜に気を取られ過ぎると犬夜叉をおざなりにして揺れが犬夜叉に伝わってしまう。そんなことを幾度となく繰り返し、そんな不器用な自分にうんざりしてしまう。今度は十六夜を置いて先に進んでしまったことに気づき、自己嫌悪に陥っていたそのとき、十六夜が、あの、と口火を切った。

「昨夜は申し訳ございませんでした。我がままを言ってしまい……」
「我がままなどではありません。私は十六夜様にお仕えするように言われております。何でも言ってください。あの、その……私にその……ええと」

 歩調を合わせつつ言い淀むに十六夜が首を傾げる。

「いかがいたしましたか」
「その……をあげる以外は私にもできることもあるかと思いますので、是非ともやらせてください」
「……ごめんなさい、何をあげる以外、と仰いましたか」

 うまく聞き取れず十六夜が聞き返せば、の頬に朱が差した。言いたくない、言いたくない、と念仏のように心中で唱えるが、きちんと伝えなくてはならない。

「乳、です」

 絞り出すように言うと、十六夜は目を丸くするも、次の瞬間には噴き出して、鈴を転がすような声で笑った。笑われてしまった、とは肩を落とすも、けれど闘牙王が亡くなって以来、声をあげて笑う十六夜の姿を初めて見た気がする。
 ひとしきり笑うと、十六夜は目尻に浮かんだ涙を拭って、息をついた。

「すみません笑ってしまって……から乳と言う言葉が出てくるとは思わなくて……」
「私も長い月日を生きていますが、初めて口にしたかもしれません。でも、十六夜様が笑ってくださったから、恥を忍んで言ってよかったです」

 十六夜が笑ってくれるならそれでいいと思った。少しでも十六夜が楽しい気持ちになってくれるなら、なんて。と、そこまで考えて、出過ぎたことを言ったかもしれない、と自省する。窺うように十六夜の表情を見れば、はにかむような笑みを浮かべていた。

+++

 相変わらず寂れた藤堂邸の外郭を沿うように歩いていき、門から中に入る。背高く伸びた雑草を避けながら寝殿へと向かうと、水の枯れ果てた広い庭園の池の中で、ひとりポツンとしゃがみ込んで雑草を抜いている老爺の小さな後姿が見えた。どうやら主人自ら雑草をむしり取っていたらしい。

「藤堂様」

 声を掛ければ藤堂は振り返り、たちの姿を認めるとにこにこと微笑み立ち上がった。

「お待ちしておりましたよ。さあさ、どうぞ」

 藤堂に案内され、寝殿の中へとやってきた。調度品は空間を仕切るための屏風くらいで、殆ど何もない質素な空間であった。寝殿がこれほど簡素ならば、ほかの棟はきっとがらんどうなのだろう。
 貴族の住まいの内郭は、今たちがいる寝殿を中心として廊で繋がれたいくつかの棟から成り立つ。寝殿は主屋で、主人が住む建物だ。その寝殿を中心に、北と東と西に対屋が置かれている。藤堂は、どこでも好きなだけ使ってくれて構わないし、置いてあるものはすべて使ってよいと言ってくれた。また、せっかくだから一緒に食事を摂りたい、との藤堂からの提案で、ご飯も提供してもらえることになった。お金はいらないと言われたが、絶対払います、とは譲らなかったので、最終的に藤堂が折れた。

「それにしても、十六夜様だったのですね、殿が仕えている主人、と言うのは。先の火災は大変でしたね、痛み入ります。どうか、ご自分のお屋敷だと思って過ごしてください」
「何から何まで本当にありがとうございます。このご恩は一生忘れません。藤堂様は流行り病でご家族を亡くしてしまったと伺いました……わたくしたちに出来ることがあれば何でもおっしゃってくださいね」

 藤堂と十六夜の境遇は、二人を差し置いて皆亡くなってしまったという点で、似ていた。藤堂がそんな十六夜に同情の念を抱いて屋敷に居候することを許してくれたのかは定かではないが、どんな理由であれ住むところを提供してくれた藤堂には感謝でいっぱいだ。
 の腕の中で犬夜叉がもぞもぞと動いた。と思ったら、次の瞬間には顔をくしゃくしゃにして泣き出した。途端、オロオロと情けない顔で十六夜を見る。十六夜はから犬夜叉を受け取ると、よしよし、と犬夜叉をあやす。
 藤堂は慈しむようにその様を眺めていた。かつてこの屋敷でもこんな光景があったに違いない。そう考えると、は胸が苦しい思いになる。その成長を見守り、藤堂から子へと受け継がれていくはずだったのに、藤堂よりも先に皆亡くなってしまったのだ。一人、この広い屋敷でぽつねんと過ごすのはどれほど寂しいのだろう。人間は儚い。だからこそ美しく、愛おしい。

「ひとまず、雑草取りは私が引き受けましょう。それから警護も」
「それは助かりますね」

 こうして藤堂邸での共同生活が始まったのだった。たちは東対を使わせてもらうことになった。しかし、身一つで荷物は何もないので、色々と揃えていく必要がある。十六夜の財産は何も残っていないため、ひとまずは当面の生活費を稼ぐことから始めることにした。

「十六夜様、少しの間お傍を離れてよろしいでしょうか」
「ええ、構いませんよ」
「代わりにこの黎明牙を置いておきます。この刀は親方様の牙でできていて、念じれば結界を張ることが出来ますので、護身用としてお傍に置いておいてください」
「わかりました。いってらっしゃい」

 黎明牙を十六夜の傍に置くと、早速は屋敷の外に出る。ぐっと地面を蹴り空高く跳躍しては着地し、再び跳躍し、地上の様子を見る。やがて、貴族が集まって蹴鞠や貝合わせに興じている様子を見つけたので、その屋敷近くにやってきた。貴族たちの楽しげな声が聞こえてきて、はあ、と重いため息をついた。

「本当は嫌ですが、仕方ありませんね……」

 目を閉じて集中する。するとの姿がどんどんと人間の女性の姿へと変わっていった。
 に流れる化け猫の血には、人間の女性に変化することが出来る能力がある。はあまり人間の女性の姿になることは好きではない。本来の性別は男であるから、違和感を感じるのだ。しかし、手っ取り早くお金を稼ぐにはどうしても必要のため、渋々変化した。
 発声し、女性の声になっていることを確認すると、烏帽子帽を被って楽しそうに蹴鞠をする貴族たちのもとへ近寄る。は深く息を吸い、仕事を始めた。
 の仕事……それは遊女となって、歌を披露することだ。化け猫の能力で遊女の姿になり、歌を披露することで、貴族たちから小銭を稼ぐことが出来るのだ。
 普段は貴族相手に妖怪退治を請け負ったり、退治した妖怪からとれる素材を売り払ったりしてお金を稼いでいるのだが、今回は早くお金を稼ぐ必要がある。そのため、嫌々ながらも遊女の姿になり、戯れている貴族たちのもとに現れて、歌を披露してお金を稼ぐことにしたのだった。
 貴族たちは鞠を蹴るのをやめての姿やその声に見惚れる。

「なんと美しい女子ぞ、なんと美しい声ぞ」

 聞こえてきた貴族たちの声に複雑な気持ちになるも、どうやらお金を稼げそうだ、とほっと安堵したのだった。
 昔は本当にこの能力が嫌いだった。けれど闘牙王がのこの遊女姿を見て、

『美しいぞ、

 と言ってくれたから、はこの能力を、この姿を受け入れることが出来たのだ。
 の辿ってきた道には、闘牙王との思い出があまりに多い。それほどにとっては大きな存在なのだ。同族を離れ、犬の一族の臣下になったことについて後悔したことは一度もないし、これからもないだろう。