早速宿場に戻って十六夜に伝えれば、まさかこんなに早く決まるとは思わなかったようで、大層驚いていた。とて、とんとん拍子に決まるとは思わなかった。
 冬は日が短い。その日はもう日暮れも近かったため、宿場に泊まることにした。ご丁寧に布団は二組敷かれていたがまさか一緒の部屋で寝るわけもなく、はそそくさと部屋の外へ出て柱に凭れかかる。外では雪がちらほらと舞い始めていた。しんしんと白い雪の粒が降っては積もりを繰り返し、庭先を白く染めていく。

(竜骨精と戦い、産気づいた十六夜様のもとへ向かったあの時も雪だった)



02 君恋し雪



 ついこの間のことなのに、途方もなく昔のことのようにも思える。
 あの時、そう竜骨精から受けた傷が癒やす間もなく、や冥加の制止も聞かずに白い大地を赤い血で染めながら十六夜のもとへ駆け抜けていた。道中、闘牙王が亡くなった後にやってほしいこと、お願いしたいことを簡単にに告げていく。そのひとつひとつを忘れぬように心に刻みながら、は着いていく。
 十六夜の住まう館で闘牙王を迎え撃たんとする兵士たちはざっと百を超えていた。しかし、人間が束になろうが闘牙王の敵ではない。風の傷で行く手を阻むものたちをなぎ倒す。も黎明牙を振るい、闘牙王に立ち向かう者たちを躊躇いなく切り捨てていく。
 寝殿の前で武装した男――刹那猛丸――が最後に待ち受けていた。彼は十六夜を慕うがあまり、十六夜を斬り殺した、と言った。寝殿の中には十六夜が待っている。闘牙王は進むのを止めず、立ち向かってきた彼の左腕を斬りおとすと、すぐさま寝殿に入った。それを見た猛丸は火をまとった矢を寝殿に放つように叫び、すべてを燃やし尽くそうとする。火はすぐに燃え広がり、赤い炎と黒煙が見る見る間に広がっていく。
 十六夜は蚊帳の中で息絶えていた。その腕からは赤子の泣く声が聞こえてくる。どうやら子どもは無事産まれたらしい。闘牙王はすぐさま天生牙であの世の使いを斬りかかると、十六夜の心臓が再び動き出した。何事かと上体を起こした十六夜に、闘牙王は火鼠の衣をかける。は子を抱く十六夜の身体に手を回して、立ち上がる手助けをする。片腕を斬りおとされた猛丸が、尚も闘牙王に立ち向かおうと剣を構えて追いかけてきた。

『生きろ』

 切っ先を猛丸に向けながら、闘牙王が言う。

『犬夜叉。その子の名は犬夜叉―――さあ、行け!』
『あなた……』

 闘牙王は十六夜に背を向けたまま決して振り返らなかった。それでも十六夜には闘牙王の気持ちが、覚悟が痛いほど伝わってきた。十六夜は闘牙王の想いを汲んで、後ろ髪引かれながらも倒壊しつつある寝殿から逃げてゆく。

。お前も行け』
『私は残ります!!』
!!』

 有無を言わせぬ語気だった。はもう何を言っても無駄なのだと悟る。

『………は……い』

 唇を噛みしめて、はくるりと闘牙王に背を向けて駆け出した。
 すぐに十六夜に追いつき、彼女のことを横抱きするとぐっと地を踏みしめて跳躍する。煙を突き抜けながら寝殿を脱出すると、程なくして寝殿は倒壊した。

(闘牙王様……)

 頼まれたことは必ず守るつもりだ。けれど早くも挫けそうな自分がいて、情けない気持ちになる。闘牙王は自分にとってすべてだ。その闘牙王が亡くなってしまったなんて、未だに信じられない。しかし胸がぽっかりと空いたような喪失感が、亡くなってしまったことを確かに訴えている気がした。
 理解することと、受け入れることは少し違うと思う。闘牙王が亡くなってしまったことを理解はしているが、それを事実として受け入れることについては少し時間がかかる。そうでないと心が壊れてしまう。
 胸がきゅっと締め付けられて、視界がじわじわと滲んでいく。瞬くと一粒涙が零れて、そこで初めて自分が泣いていたことに気づいた。掌で無造作に拭っていると、人の気配が近づいてきた。まずい、と思い慌てて泣いていた痕跡を消す。やがて十六夜がひょこっと出てきた。は立ち上がり、迎える。

様、まさかそちらで寝るのですか」
「ええ、そのつもりです」

 十六夜と喋りながら、若干の違和感を感じる。今までは十六夜とは闘牙王を交えてしか会ったことがないため、今更ながら二人きりで一緒にいるというのが不思議だった。そしてそれがまた、闘牙王がもういないのだと言うことを思い知らされるのだ。こういうことを積み重ねていき、いつかはその死を受け入れて、乗り越えていくのだろうか。

「寒くはありませんか。様さえよければ、中に入り布団を使ってくださいませ」
「心配には及びません。冷えるので中へお入りください。それに私のことは様付けせず、とお呼びください」
「しかし……」

 食い下がろうとするも、犬夜叉の泣き声が聞こえだして慌てて十六夜は部屋の中へと戻っていく。は内心ほっと胸をなでおろす。主君の奥方と同じ部屋で、しかも布団を並べて寝るなんて考えられない。しかし、十六夜の心遣いはとても嬉しくも思う。闘牙王を亡くして悲しんでいるのは同じはずなのに、こんな風に思い遣ってくれる十六夜は本当に優しくて強い女性なのだ。

さ……

 今度は犬夜叉を抱きかかえてやってきた。十六夜は犬夜叉をあやすように揺れている。はそろっと近づいて犬夜叉の様子を伺い見る。揺れが心地よいのか、犬夜叉の泣き声はどんどんと小さくなってご機嫌そうな顔になった。闘牙王譲りの美しい銀髪に、可愛らしい犬耳。目のあたりは十六夜似だろうか? 殺生丸も昔はこんなに小さかったなあ、なんて犬夜叉にとっての異母兄を思い浮かべて、ほっこりとしてしまう。

「触れてもよろしいですか」
「はい、触ってください」

 恐る恐る手を伸ばそうとして自身の爪を見てすぐに引っ込める。爪が尖っていて妖怪のそれであった。に流れる化け猫妖怪の血は、人間の姿になることも出来る。ただし、女にしかなれないのが、男のにとっては難点だ。意識的に手だけを人間に変化させると、改めて犬夜叉に手を伸ばす。小さな手をぎゅっと握っているところを、ちょん、と触れれば、その小さな手が、まるで花が咲くように開いて、の人差し指をきゅっと握った。小さいけれど温かい手で、しっかりと握ってくれる。――生きている。不覚にもは鼻の奥がツンとなり、涙が出そうになる。

「なんと……可愛いのでしょうか」
「ええ。犬夜叉はあのお方が遺してくださった、最愛の宝物です」

 誇り高き犬一族を背負う“犬”と言う文字に、十六夜の“夜”。どちらも入った犬夜叉と言う名前はなんと良い名前なのだろう。

「……そういえば先ほど私の名を呼ばれましたが、いかがいたしましたか?」

 このまま感傷に浸るのはよくないと思い、慌てて話を戻す。

「あぁ、実は……」

 と言ったきり言い淀む十六夜。言いにくいことなのだろう。けれども犬夜叉をあやすために神妙な顔で揺れる十六夜がなんとも可愛かった。

「夜が……怖いのです。また、あのようなことが起こるのではないかと……」

 震える声で、けれどはっきりと言葉にして十六夜はに伝えてくれる。無理もないことだ、とは思う。あまりに辛いことが起きすぎている。こんな時、傍にいるのが闘牙王だったら抱擁の一つでも交わして安心させていただろう。けれどここにいるのはで、彼女を安心させる術なんて持っていない。なんと歯がゆいのだろう。後悔は次から次へと溢れてきて、自己嫌悪の海に沈んでいきそうになる。あの時、闘牙王が竜骨精に挑むのを力づくで止めていたら、刹那猛丸を殺しておけば、産気づく前に十六夜を攫っていたら、なんていずれもたらればの話だが、時を戻す術は、誰も持ち合わせていない。

「ですから……はしたない女だと軽蔑されるかもしれませんが、せめて、同じ部屋にいてくれないでしょうか……」
「はしたないなんて! お、思いません……私にできることならなんでもしましょう」

 否定をするのに咄嗟に大きい声が出てしまい、すぐさま声の大きさを小さくする。そんな様を見て十六夜はくすくすと笑みを零した。
 結局十六夜の布団の傍に仕切りを置き、はその仕切りに背を向ける形で座り込む。

「我がままを言って申し訳ございません」
「闘牙王さまから、十六夜様のことをお守りする様に言われておりますので、遠慮なさらず何でも言ってください」
「ありがとう。……おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」

 十六夜の為に、犬夜叉の為に、何ができるのだろうか。護れるだろうか、いや、護らなければならない。それは違えてはいけない誓いだ。そのためにはいつまでもメソメソしていてはいけないのだ。今の十六夜に、頼れるものはしかいないのだから。