警察庁警備局警備企画課“ゼロ”に所属する公安警察。私もそこに所属するわけなのだけれど、私自身は決して大した人間ではない。平凡すぎて所属を名乗るのが恥ずかしいくらいなのだけど、何の因果か、ここでお世話になってもう3年だろうか。前線には全く出ませんが、毎日毎日、雑務をこなしています。 上司の降谷さんは現在潜入捜査で席を空けていることが多い。と言うより、いないことが殆どだ。現在の表向きの名前は、安室透と言う。今、安室さんは喫茶ポアロと言う喫茶店で働いているのだけど、それって本当に潜入捜査に必要なのだろうか、なんてたまに疑問に思ったりもするが、決してそんなことは言ったりしない。 けど、安室さんの淹れるコーヒーも、作ってくれるケーキも、サンドイッチも、すべてが美味しいんだから、溜まりに溜まった仕事は大目に見ている。けれどそろそろ来てくれないと、降谷さんのハンコを待ちわびている決裁待ちの書類たちの山が崩れそうですよ。 まあ、兎にも角にも、今朝は出社前に上司のアルバイト先にお邪魔することにした。降谷さんの働いているポアロはうちのアパートからも近いし、何よりすべてが美味しい。たまには朝活ってことで。 「いらっしゃいま……おや、さんじゃないですか」 降谷……おっと、安室さんが私の姿を認めると、にこっと微笑んだ。降谷さんはそんなに笑ったりしないので、なんとなく安室さんの笑顔を見るとぞわっとしてしまう。それは怒られがちの部下だからでしょうか。て、いうかいつもって呼び捨てにするくせに、なんで安室さんになると名前にさん付けなの? そこは名字にさん付けじゃないの? そんなことは怖くて聞けないけど。 「おはようございます。出社前に朝ごはんを頂こうかなと思いまして。モーニングセットをお願いします」 「そうでしたか。今日はコナンくんたちもいらしてますよ」 安室さんの視線の先を辿れば、確かにコナンくんと蘭ちゃんが窓際の席にいた。二人は向かい合って、美味しそうにトーストを頬張っている。 「おはようございます」 席に近づき挨拶をすれば、二人は私のほうを向く。 「さん! おはようございます!」 「毛利探偵はいらっしゃらないんですね」 「お父さんは昨日の夜、麻雀を徹夜でやってたみたいでまだ寝てるんです」 蘭ちゃんの可愛らしい顔がぶすっとゆがむ。正面のコナンくんが苦笑いを浮かべる。 「姉ちゃんは今からお仕事なの?」 コナンくんがきょとんと首をかしげる。彼はこんな可愛い顔をしているけど、降谷さんの正体を知っている数少ない人物だ。その流れで私もコナンくんたちとは仲良くしてもらっている。コナンくんは私の正式な所属を知っているけど、蘭ちゃんたちには、警視庁で庶務をやっている、とだけ伝えてある。 「そうなんです。出勤前にポアロで朝食をと思って……」 「さんがよければ一緒の席にどうですか?」 「いいんですか? じゃあ、ご一緒しちゃおうかな」 お言葉に甘えて同席させてらもうことにした。 「でもまさかさんと一緒に朝ごはん食べれるなんて嬉しいです!」 「わたしも。いつも一人で朝ごはんを食べてるので、誰かと一緒に食べれるのなんて嬉しい」 一人暮らしの生活は味気ないものだ。自由気ままな生活だけど、基本的にはひとりで食事をすることが多い。まして朝なんて、誰かと食べることなんてあっただろうか。ああ、元カレが泊まりに来たときなんか、あったかな。 「ねーちゃんは彼氏とかいないの?」 コナンくんは私の頭の中が見えるのだろうか。今しがた脳裏に浮かんでいた元カレの顔がもう一度色濃く浮かんできた。 「あはは。いないよ、別れちゃった」 「そうなんですか……すみません、変なこと聞いちゃって」 「全然! 彼に対してなーんの感情もないので」 蘭ちゃんが物凄く申し訳なさそうな顔をして謝るので、今は新しい出会いに向けて女を磨いてるところです! と明るく言うと、タイミングよく降谷さんがサラダを持ってきてくれた。 「ホォ。さん、彼氏と別れてしまったんですか」 別にいいんです。別に、いいんですけどね。なんとなく上司に恋愛の話を聞かれると気まずい。一瞬私の表情は固まってしまったに違いない。早くどっか行ってください、降谷さん。お願いします。 「え、ええ……サラダありがとうございます」 「いえ」 降谷さんと目が合わないように俯いて礼を述べれば、私の気持ちが届いたのか、降谷さんはカウンターに戻っていった。 「お仕事は大変?」 コナンくんが恋愛話から逸らしてくれたのはとても嬉しい。察しのいい子だから、もしかしたら私のこの気まずい雰囲気を感じ取ってくれたのかもしれない。 「大変、だけどなんとか毎日やってるよ。でも最近、私の上司が席を外していることが多くてさ」 ポアロのバイトを減らして、その分来て欲しいものだ。 「やっぱり上司の方がいないとお仕事は進まないんですか?」 蘭ちゃんの質問に、そうねー。と頷く。すぐ近くでコーヒーを淹れているであろう上司の姿を想像しながら、サラダを咀嚼する。 「もうね、上司の決裁待ちの書類が山積みで、今にも崩れ落ちそうなんです。上司がぽんっとハンコを押さないとその先に進めないものでして……。もう少しだけでも来てくれるとありがたいんですけどねえ……なんか、忙しいみたいで。どっちが本業なんだか」 気づけばぺらぺらと蘭ちゃんに愚痴を言ってしまって、はっとする。こんな愚痴を聞かされても蘭ちゃんからしたらきょとん。と言う感じだろう。いかんいかん、こんな社会人はいかんな。 「ごめんね蘭ちゃん、朝から上司の愚痴なんて……」 「でもその上司の方と結婚したらさんは同じ苗字になりますので、ハンコも押せますね」 頭上から降りかかった声に、私は全身から血の気が引くのを感じた。ああ蘭ちゃん、この人なんです。私の上司は……うそでしょ、聞かれてしまった? あとでどんな仕打ちが待っているか考えただけで冷や汗が出る。降谷さんはモーニングのトーストを私の前に置いて、その次にコーヒーを置いた。 「そ、そういう問題では……」 ていうか、降谷さんさ、どういう意図でそういうこと言うんですか。見上げれば真意の読み取れない笑顔で降谷さんが私を見ている。 「でもさん、彼氏と別れたんですよね?」 「ええまあ別れましたが、だからと言って上司と結婚するというのはあまりに突飛した発想かと……」 「さんはその上司のことは好きではないんですか」 「いや、好きとかそういうのじゃなくて……」 確かに顔はいい。女子高生にきゃーきゃー言われちゃうくらいには顔がいい。彼目当てでお店に来るようなお客さんがたっくさんいるくらいには顔がいい。私だって配属された初日はラッキーだと思いましたよ。でも降谷さんと付き合ったら心労が絶えなそう。激務だし。女の影も絶えなそうだし。って、何想像してるの私。 「……と、いうか、同じ苗字だからといってふる……じゃなくて、上司の代わりに判を捺していいわけではないじゃないですか」 「それもそうですね。忘れてください、先ほどの言葉は」 そういって安室さんは戻っていった。ええ、なんなのあの人? 怖いのですが。降谷さんの真意が読めないんですが。 「でもさん的にはその上司の方はナシなんですか?」 至極楽しそうな顔で蘭ちゃんが首を傾げた。やだ蘭ちゃん、その話題もう終わらせたかったのに。でも年頃の女の子はやっぱりこういう話題が好きなんだろうなあ。私も高校生の頃はそういう色恋の話が好きだったさ。今は昔だけど。 「ううん……アリとかナシとか考えたことないなあ。だって上司だしさ」 これ、100点の回答じゃないかな。いやでも本当に、今の今まで降谷さんのことそんな対象として見たことなかったしな。でも突然上司のほうから、結婚したら、なんて言われたらいやでも意識しますよね。降谷さんの顔が整っているのがいけない。いつも厳しいくせになんだかんだミスをかばってくれたり、優しくしてくれたりするのがいけない。もう、意識しちゃうじゃん。 「ぼくはいいと思うけどなぁー」 ニマニマと人の悪い笑みを浮かべる小学生が今だけは憎い。 「さん」 「はい!?」 今度は何だよ降谷さん。もう全部出してもらったはずですが。 「その上司の方、早く来るといいですねぇ」 「あ、あはは……」 先ほど私は上司にもっと来てほしいと言いましたが、前言撤回です。暫くは、こないでください。 ああ暑い。なんか暑いな。 「さん顔真っ赤! どうしたんですか?」 「わぁ、本当だ。さん、何かあったんですか」 「あれれ〜。なんか照れてるみたいだね?」 心配そうな蘭ちゃんと、至極面白そうな降谷さんと、これまた至極面白そうなコナンくん。もう勘弁して。これ以上降谷さんを意識させないでください……。 からかわないでください |