※『いっそ世界が終わればいい』の40話のアレクサンドルサイド的なお話です。


 もう時間がない。今こそ蛍姫様を救う時なんだ。あと必要な核は二つ……。実行するにあたって、”アレックス”の記憶を周りから消す必要があった。そこで問題があった。さんの存在だ。彼女はきっと、直接術を施さなければ記憶が消えないだろう。それくらい彼女とは関わりすぎた。心を鬼にして彼女を遠ざけられたらどれほどよかったのだろう。出来ない自分が、にくい。
 そんなこんなで俺は彼女を雇った際に一応書いてもらった履歴書をもとに、さんの家に向かっている。
 履歴書、か。そもそもあの店で誰も雇う予定なんてなかった。最初は彼女を雇うはずじゃなかった。けれど、思わず言ってしまったんだ。「構いませんよ」なんて。言った後で、何を言っているのだ? と自問したものだ。けれどあの時の彼女の気迫とか、必死さは今でも忘れられない。
 彼女があの時宝石店に来なかったら、おれは何も感じずに目的を成し遂げていただろう。彼女がいたから、おれはかろうじで心を保てていたと思うんだ。罪悪感を感じることに、安心すらしたのだ。真っ白なさんに、なじって、罵倒して、思い切り否定してほしかった。おかしな話だ。だから彼女を遠ざけられなかったんだ。ごめんなさい、謝っても謝りきれないくらい彼女には辛い思い、悲しい思いをさせてしまった。おれが彼女にできることは、せめておれの記憶を消して、おれがいなくなっても心に何も痛みを残さないようにすること。……まあ、正体を知れば、悲しむこともないかもしれないが。こんな殺人鬼、いなくなってせいせいするかもしれないな。

『アレックスさん』

 例えば、だけれど。すべてを彼女に打ち明けるとする。彼女はショックを受けるだろう、軽蔑するだろう。二度と顔を見たくないと思うだろう。おれとかかわったすべての時間を後悔するだろう。そんな彼女をさらって一緒にどこかへ行けたら、その先に待っているのは、なんなんだろうか。幸せ? いいやそれだけはない。では、不幸? 不幸、なんて言葉が安っぽく感じるほどの、ほの暗い闇だろうか。
 なんて馬鹿なことを考えているうちに、さんの家だ。二階くらいの高さなら、まあ飛んでいけるだろう。バルコニーに飛び込んで、窓をそっと開ける。夜も更けていたので、彼女はすっかり眠り込んでいた。あどけない顔がまるで無垢で、おれの中に起こった静かな衝動が、おれの身体を支配しようとする。

―――さんと一緒に、誰も知らない場所に行きたい

 やめろ、こぶしを握って自制する。達成されようとしている目標を目の前にして、少し気が揺らいでるだけだ。さんが喜ぶわけないだろう、蛍姫さまはどうする? この選択はきっと、誰も救われないバッドエンドだ。絶対に選んじゃいけない選択なんだ。

さん」

 小さくつぶやいて、彼女の頭に手を添えて、額まで滑らせる。するとさんが一瞬顔をしかめて、ゆっくりと目を開いた。起こさないように気を付けてやったはずなのだが、眠りが浅い方なのだろうか、起こしてしまったようだ。なんというか、嬉しくはない展開だ。

「……れ?」

 やめてくれ、そんな風に無防備な姿でおれを見ないでくれ。

「……君は、消えないだろうから」

 もう二度と迷わないように、後戻りできないように、すべてを振り切って無理やり忘却の術を施す。

「アレックスさん……?」

 アレックスに、さようならだ。

「さよなら」
「待って、いかないで……アレックスさん……」

 感情を押し殺して、くるり踵を返し、さんの家を後にする。少し歩いたところで立ち止まり、じっと両手を見つめる。これで、よかったんだよな。この両手、蛍姫さまを抱き上げるためにあるんだ。そうだよな? 最後に一度振り返り、さんの家を見る。さようなら、さん。あなたの生きる道に幸多かれ。





君をさらってしまおうか